メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

宮沢賢治 銀河への旅~慟哭の愛と祈り@ETV 特集

2019-12-06 14:51:08 | テレビ・動画配信
「作家別」カテゴリー内「宮沢賢治」に追加します

これまでも色々宮沢賢治についてのドキュメンタリー番組を見てきたけれども
これは初耳で、全く新たな切り口で大変興味深い番組だった

ますむらさんの講義を聞いた時も様々な見解を聞いたけれども
これらの話も知っているだろうか?

賢治とある女性との恋愛の話も番組で見たことがあるし

賢治がいろいろな所を旅していたのは、妹とし子の死が原因だという
切り口の番組もあったし、いろんな謎がまだまだあるなあ

だから賢治、『銀河への旅』は永遠に面白い

影絵も素晴らしい 藤城清治さんを思い浮かべた



【内容抜粋メモ】

17世紀に望遠鏡が発明されてから
天の川は実は無数の星の集まりであり
渦巻きの形をしていることがわかってきた

このような星の集まりを銀河と言う

この渦巻き銀河を横から見ると凸レンズの形をしているとわかったのは
20世紀に入ってからのことである




驚くべきことにその学説が日本に紹介されて間もなく
銀河の中を列車が行くイメージを着想した日本人がいる

岩手県花巻市生まれの詩人・童話作家の宮沢賢治である

「きしやは銀河系の玲瓏レンズ 巨きな水素のりんごのなかをかけている」


宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』はこのイメージを元にして作られた
イタリアと思しき町に住む(イタリア?)少年ジョバンニと親友カンパネルラが
天の川沿いに走る銀河鉄道に乗って、様々な人に出会う中で
人間のほんとうの幸せとは何かを考えるという物語






賢治が銀河への旅に託したメッセージとは何だったのか
それには賢治が生涯をかけて愛した一人の男性が深く関わっていたのである


「妙法蓮華経」との出会い
賢治は明治29年8月27日、花巻川口町の中心地 豊沢町にあった
質屋・古着商の長男として生まれた








明治2年 盛岡市の盛岡中学校に進学




中学時代、岩手山をはじめとする山々を歩き回り、しばしば山中で野宿した
一人、山の中で星空を眺めながら自然と一体となり、安らぎを感じる少年だった




生涯の道標となる「妙法蓮華経」に出会ったのは中学卒業後のことである
妙法蓮華経とはインドの釈迦の言葉を集めた書である

「漢和対照 妙法蓮華経」 島地大等 著




妙法とは「真理」を意味する

例えば私たちの宇宙は、広さも時間も無限なのだと釈迦はいう
賢治は釈迦の言葉に惹かれていく

大正四年4月 盛岡高等農林学校(現 岩手大学)を優秀な成績で合格した




そして校内にある自啓寮に入寮
1年後、賢治は部屋の室長となって5人の新入生を迎えた




寝そべっているのが保阪嘉内という山梨から来た生徒だった その後ろが賢治






室長の賢治に初めて対面した時、彼は臆することなくこう言ったという

カナイ(当時20歳):
私はロシアの文豪トルストイの小説を読み、その生涯を知って
トルストイのような生き方をしたいと思って盛岡に来ました

トルストイの生家は地主です
彼は最晩年に土地を全部百姓に与えて、自分は家を出て旅先で死にました
トルストイは百姓こそ人間であるべき本当の姿だと言っています

賢治:
トルストイは僕も読んだが
トルストイに触発されて農学校に来る人もいるんだね
文学には意外な力があるんだ
物語として読んでいてはダメなんだね


カナイは自己犠牲を理想としていた

この若者はさらに賢治を驚かせた

自啓寮では、入寮懇親会で各部屋ごとに出し物をやることになっていた
カナイは賢治を含めた6人全員で芝居をやろうと提案した
そして数日で一気に脚本を書き上げたと言う

戯曲「人間のもだえ」と題された原稿が残されている
3人の神様が人間たちに向かって「百姓となれ」と説く劇だった
カナイは自分を全能の神、そして賢治を全知の神に振り当てた






全治の神の扮装を賢治はこう書いている

全知の神ダークネス 頭も体も全部黒
全能の神 赤い顔 赤いギリシャ服 赤色シャツ

「人間のもだえ」は5月20日懇親会で上映された




「よく聞け 嗚呼、人間よ
 土に生まれ 土に還る
 お前たちは土の化け物だ 土の化け物は土だ
 自然だ 光だ 熱だ

 お前たちよ 土に心を入れよ
 人間は皆百姓だ 百姓は人間だ
 百姓をしろ 百姓は自然だ!


賢治は後にこの台詞どおりの道を歩もうとした
それほどにこの時の演劇体験は強烈なものだった


保阪嘉内とは何者なのか
私たち取材班はカナイの生家がある山梨県韮崎市に向かった
韮崎市は南東に富士山、正面に茅ヶ岳、北西に八ヶ岳の田園風景の中にあった





(いいところだねえ


家は代々大きな地主の庄屋だった
カナイは賢治と同年の明治29年 保坂家の長男として生まれた






カナイの小学校時代、この辺り一帯は度重なる水害に見舞われ
田畑は荒廃し、多くの死者が出た

遺体は河原に埋められたが、時が経つにつれ人骨が露出し
日にさらされるようになった

カナイは子ども心に
人間は死んだらこんな風に自然に還り、土と化してしまうのだと思ったと言う


アザリア記念会
ここには賢治とカナイの関係を示す多くの資料が保管されている






カナイは甲府中学5年生の十八歳の時に弁論部に入部した

当時の弁論原稿が残っていた
甲府中学の時の弁論部でカナイが自分の考えをまとめたもの

「花園農村の趣味及び目的」
花園農村とは美しく豊かな理想の農村という意味である




抜粋:
諸君は百姓についてどう考えますか?
私はただ諸君、百姓たれと言ってこの壇を降ります


賢治との初対面の席で語ったロシアの文学者
トルストイについての弁論原稿もあった

抜粋:
あらゆる利己を犠牲にして十字架にかかった主イエスキリストのごとく
ふるさとを出たトルストイのごとく
自己を生贄としてささげねばなりません

百姓をせよ

そして我々のハッピーキングダム
幸せの王国を パラダイスを すなわち極楽浄土を作れ



ここに自らを犠牲にして農民のために尽くすという
カナイの考えが示されている


「カナイのスケッチ帳」
カナイが中学時代に書いたスケッチブックがある




まず目に付いたのが、一見何を描いたのか分からないこのスケッチ
事務局長の向山さんによると、八ケ岳山麓の風の神様を祀った石の祠だという




冬 吹き降りる八ヶ岳おろしを、山麓の人達は「風の三郎」と呼んで石を祠に祀っていた
今あるのは八ヶ岳権現の祠で、その横に同じような形の風の三郎社があったという



(見事な巨木! それに「風の又三郎」とかぶる

カナイがここを訪れた時、西の祠は壊れていたがあえてそれを描いた
風の神に強い関心を持っていたのだ

スケッチは賢治の代表作「風の又三郎」を連想させる


「風の又三郎」
風の又三郎は、東北地方に伝わる風の三郎さんの
わらべうたを取り入れて作られたと言われている

ストーリー:
風の強い秋の朝 小学校の教室
子どもが一人座っているのを村の子どもたちが見つけます




しんとした朝の教室の中にどこから来たのか
まるで顔も知らないおかしな子どもが一人
一番前の机にちゃんと座っていたのです

村の子ども達は風と共に現れた高田三郎を風の又三郎だと思うのです
子ども達は三郎と野原や川で遊びます

ところが10日ばかりたった風の強い日に
突然三郎はいなくなります

村の子ども達は「やっぱりあいつは風の又三郎だ」と言う


風の又三郎の容貌を賢治は繰り返しこう描ている

「おかしな赤い髪の子ども 顔はまるで熟したりんごのよう」

なぜ賢治は風の又三郎このように赤くしたのだろうか
思い当たるのは「人間のもだえ」の真っ赤なカナイだ

風の又三郎は八ヶ岳おろしの風の三郎に乗ってやってきた
カナイがモデルだったのではないか


ハレー彗星のスケッチ




これはハレー彗星をカナイがスケッチしたものである
明治43年(1910)5月 夜8時と記されている

この年 ハレー彗星が地球に近づいた
日本では天候に恵まれず、山梨付近で奇跡的に観測できた






カナイはにこう記している




銀漢とは銀河のこと

カナイはスケッチ帳を盛岡に持って行った
賢治の『銀河鉄道の夜』のイメージの始まりはこの絵だったのかもしれない


文芸同人誌『アザリア』を創刊
賢治の出会いから1年後の大正6年
賢治とカナイら4人が中心となって文芸同人誌『アザリア』を創刊
2人の仲はさらに深まった






その夏、賢治とカナイは2人だけで岩手山に登ることにした
山頂で日の出を迎えようと夜中に松明を手に出発

柏原にさしかかった時、カナイが夜空を降り仰いだ

「柳沢のはじめに来ればまつ白の 銀河が流れ 星が輝く 嘉内」

「照しゆく松明の火のあかるさに 牧場の馬は 驚きて来る 嘉内」


柏原まで来た時、ふいに松明が消えた
松明のおきにカナイと2人で代わる代わる息を吹きかけた
と賢治は短歌にも残している

「柏ばら ほのほたえたるたいまつを
 ふたりかたみに 吹きてありけり 賢治」




天の川がよく見える夜だった

途中、賢治とカナイは岩場に腰を下ろし
銀河を眺めながら自分たちの将来について熱く語り合った

トルストイや釈迦のように世の中の人を救う道を二人で歩もう

この夜の銀河の下での誓いは賢治にとってどれほどの喜びであったか

自らを犠牲にしてでも世のために尽くす
カナイと2人でどこまでもその道を進む

岩手山の山頂で迎えた日の出
賢治にとって人生の中で最も輝かしい夜明けであった






種山ケ原
同じ年の7月の夏休み
賢治は旅先の種山ケ原で見た電信柱を短歌に詠んだ




賢治はなぜ電信柱など短歌に詠んだのだろうか

これはカナイが中学時代に描いた電信柱である
電信柱を絵の題材に選ぶというのは極めて珍しい

カナイの絵に刺激されて、賢治は電信柱の絵を描いた
そしてこの短歌に詠んだと思える




突然の別れ
大正7年2月に出した『アザリア5号』
そこに載ったカナイの短文が思わぬ事態を引き起こした




カナイは危険な「虚無思想」の持ち主で
皇室に意を唱えていると学校側に判断され
2年生の3学期に退学処分となったのである

(学校は同人誌まで読んで規制していたのか?驚


カナイは山梨に戻り、以後3年4ヶ月の間、2人は会うことがなかった
カナイとは手紙だけの付き合いとなった


山梨県立文学館




大正5年~大正14年までの2人の手紙が保管されている
賢治がカナイに送った手紙は73通にのぼる




学芸員中野さんによると、73通のうち56通が
カナイが退学してからの3年4ヶ月に集中している

賢治が20回も同じ言葉を繰り返している手紙
表と裏いっぱいに繰り返されている「南妙法蓮華経」の文字






特に目立つのはカナイと二人で岩手山に登った
夜のことを繰り返し書いた手紙である

そして賢治の振り絞るような執拗な言葉が残されている

「私が友 保阪嘉内 私が友 保阪嘉内 我を棄てるな」



●本郷菊坂(ここも行ったな→here






カナイが去って3年が過ぎた大正10年
賢治は日蓮宗系の宗教団体で奉仕活動をするために東京に下宿していた

そこへカナイからハガキが届いた
軍隊に志願して1年 現役除隊となったが
今度は見習士官として7月1日から東京の兵舎に入営したという知らせだった




「お葉書拝見いたしました
 私もお目にかかりたいのですがお訪ねできますか?」


上野帝国図書館での再会
2人は7月18日 上野帝国図書館で再会することになった



(ここも大好きな場所

町歩き@上野(国際子ども図書館)


再会の場所は3階の閲覧室

賢治は先に来て待っていたカナイを「ダルゲ」という名前にして
再会の様子を詩やエッセイに書き残している




エッセイ:
そうだ この巨きな室にダルゲが居て
こんどこそもう会へるのだ

俺は何だか胸のどこかが熱いか溶けるかしたやうだ

大きな扉が半分開く
おれはするっとはいって行く

室はがらんとつめたくて
猫背のダルゲが額に手をかざし
巨きな窓から西ぞらをじっと眺めている

この後、賢治はカナイの姿を描写するが、それが何とも不可解なのである




ダルゲは陰気な灰いろで
腰には厚い硝子の蓑をまとっている
ダルゲは少しもうごかない


蓑は藁でできた雨具である
当時は百姓たちが使っていた

さらに不可解なのは腰蓑はガラスでできていることである
つまり見えない腰みのをつけたダルゲ、すなわちカナイは立っていた

賢治はカナイを見た瞬間に直感したのだ
もうカナイはあの誓いから遠く離れたところに行ってしまった
彼は百姓になりたいのだ
一人でその道を進むつもりなのだと

2人が何を話し合ったのかは分かっていない

その日のカナイの日記には、大きく斜線が引かれてある




この後2人は会うことがなかった
この時期に作られたと思われる賢治の詩の断片がある
題名はつけられていない




「ひたすらにおもひたむれど
 このこひしさをいかにせん
 あるべきことにあらざれば
 よるのみぞれを行きて泣く。」

ひたすらに想いをかけているのだけれども
この恋しさをどうしたらいいのだろう
あってはならないことなので
みぞれの夜をただ泣いて歩くしかできない

賢治は自分の心に湧き上がっている感情を
あってはならないこと、すなわち道に外れたことと思っていた


詩『春と修羅』
大正10年12月 賢治は花巻の稗貫農学校の教師に職を得た
科学や農業実習の担当だった






4月 賢治は花巻から汽車で盛岡に行き
そこから夜通し歩いて外山高原についた
賢治は詩人として新しい人生を始めようとしていた




初めての詩の題名は「春と修羅」だった




その詩作の現場に選んだのが外山高原だった
なぜ外山高原だったのか

賢治は上野帝国図書館でカナイと別れたすぐ後で
「純黒と蒼冷」という2人の若者の対話劇を書き
カナイと思われる若者に「外山高原に行って開拓をする」というセリフを言わせている




「どこで百姓をやろうというんだ? 山梨県か?」

「いや 岩手県だ 外山という高原だ 北上山地の
 俺はただ一人でそこに畑を開こうと思う」


もちろん実際にカナイが外山高原に来ることはなかった
あの劇は賢治の描いた幻なのだ
幻のカナイに会うために賢治は外山高原に来たのである

外山高原に岩手山が見えるところがあった
岩手山はまだ雪をかぶっている
春と修羅の現場はここのようだ


春と修羅はこう始まっている

宮沢賢治 『春と修羅』 - 青空文庫

「心象のはいいろはがねから あけびのつるはくもにからまり
 のばらのやぶや腐植の湿地 いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様」

諂曲模様とはどういう意味か
賢治が熟読していた「妙法蓮華経」には
諂曲に「ヨコシマ」、すなわち邪道を意味するルビが振ってある

こんな晴れやかな春の風景が
賢治には信じられないような異様な邪な世界に見えていたのだ

「いかりのにがさまた青さ
 四月の気層のひかりの底を
 唾しはぎしりゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ


賢治はどんなふうに修羅をイメージしていたのか




日蓮のある本に
「貪るは餓鬼 愚かなるは畜生」と並んで「邪なるは修羅」とある

賢治は自らを道を外れたよこしまな人間だと言っているのである




「まことのことばはうしなはれ
 雲はちぎれてそらをとぶ
 ああかがやきの四月の底を
 はぎしり燃えてゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ」

「日輪青くかげろへば
 修羅は樹林に交響し
 陥りくらむ天の椀から
 黒い木の群落が延び
 その枝はかなしくしげり
 すべて二重の風景を
 喪神の森の梢から
 ひらめいてとびたつからす

(気層いよいよすみわたり
 ひのきもしんと天に立つころ)
 草地の黄金をすぎてくるもの
 ことなくひとのかたちのもの
 けらをまとひおれを見るその農夫
 ほんたうにおれが見えるのか






 まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)

(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

 あたらしくそらに息つけば
 ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)」


修羅の賢治は微塵となって空に消えた

釈迦は言う

無限に広がるこの三千大世界
すなわち宇宙は、微塵によって作られているのだと
この宇宙のあらゆるものは微塵からなり 微塵に還る

その意味で、この世に存在する全てのものは
たとえそれが同性を恋ゆるようなものであっても
それは宇宙の一部なのである

自然の一部なのだ

すなわちすべては、私の子なのだ





小岩井農場から鞍掛山へ
その1ヶ月後 賢治は盛岡から西へ12 km の小岩井駅に降り立って小岩井農場へ向かった
大正11年5月21日 この時書かれた詩が小岩井農場である








小岩井駅から小岩井農場へと描写は続くが
賢治が目指したのは20 km 先の鞍掛山の麓である

賢治はその場所である言葉を吐露しようと決意していた
それは「恋愛とは何か」という問いへの自分なりの答えであった






難解な原文を噛み砕いて言えばこうである

概要:
全ての人の幸いを願って結ばれる恋愛は、宗教的情操で最良の恋愛だ
他の人のことは考えず、ただ二人だけの道を行くのが普通の恋愛だ

最低の恋愛は性欲だけで結ばれる関係だ
ただし人間というのは性欲から始まって宗教的情操の高みへも行けるのだ



妹とし子の死
大正11年11月
日本女子大学を出て花巻中学校の教師をしていた妹とし子が24歳の若さで病死した




妹のために何もしてやれなかった賢治は
とし子の魂と交信したいという思いに駆られ、樺太への旅に出た

この時に作られたのが「青森挽歌」という詩である




抜粋:
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる

きしやは銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる
りんごのなかをはしつてゐる


銀河が走る夜行列車のイメージが書かれていた
賢治はそのイメージをもとに
少年ジョバンニが親友カンパネルラと旅をする物語を着想した


『銀河鉄道の夜』初稿




ストーリー:
それはケンタウルス祭と言う星祭りの日の夕方でした

少年ジョバンニが町の近くの丘に登っていると
どこからともなく「銀河ステーション」という声が聞こえ
気が付くと銀河鉄道に乗っていました

目の前の席には親友のカンパネルラが乗っていました

客車には様々な乗客が乗っていたが
サザンクロス駅に着いた時、ほとんどの乗客が降りていった

ジョバンニがカンパネルラに
「僕たち どこまでも一緒に行こうね」と言って振り返ってみると
カンパネルラの姿は消えていました

ジョバンニは泣き叫びました

これが『銀河鉄道の夜』のあらすじだった


ケンタウルス祭とは
大正14年の開けて早々 1月5日 賢治は突然旅に出る
いくつかの約束をキャンセルしての急な旅立ちだった

賢治は花巻駅から東北本線で北上し、岩手県から青森県に入り
現在の八戸駅で八戸線に乗り換えた
終点は種市駅だった




夕方 種市駅で降りた賢治は、冬の浜街道を歩き始めた
冷たい風と雪道を半月の明かりを頼りに夜通し歩き続けた
夜明けを迎えたとき、賢治は太平洋に面する侍浜の海外に立って詩を作っている




抜粋:
薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
ひかりけだかくかヾやきながら
その清麗なサファイア風の惑星を
溶かそうとするあけがたのそら





サファイア風の惑星とは土星のことである
賢治は土星を溶かしてしまう明け方の空に嫉妬している

賢治はこの土星についてこう書いている

「ぼくがあいつを恋するために」

賢治は土星に恋しているというのだ

その後、賢治は詩らしい詩を作らず、1月9日に花巻に戻った

一体、賢治の陸中海岸への旅の理由は何だったのだろう
土星を見るための旅だったのだろうか

大正14年1月6日の夜明け前の陸中海岸の空の様子を調べてみることにした

午前2時 東南東の水平線上に姿を現した土星は
南の方に移動しながら上空へと上っていく
夜明け前の4時過ぎには土星はこの位置まで来た

その時、南の水平線上にケンタウルス座
その上半身を見せていることに気がついた
夜明け前のケンタウルス座は土星と向かい合っているようだ




これは驚くべき発見だった
なぜなら『銀河鉄道の夜』はケンタウルス祭と言う星祭りの際の出来事だからだ

ケンタウルスの語源はギリシャ神話に登場する
上半身は人間、下半身が馬 半身半馬の怪物
日本では夏の夕方に見える星座とされてきた

賢治は『銀河鉄道の夜』の中でケンタウルス祭とは何かについて一切説明していない

しかし賢治が使っていた星座早見盤でも
ケンタウルスが冬の夜明けに見えることが確認できる
賢治は冬でも夜明けにケンタウルスが見えることを知っていたのだ




あの旅の目的は、ケンタウルスと土星が出会うのを確かめるためではなかったのか

私たちは改めて賢治とケンタウルスの関係を最初から洗い直してみることにした

ケンタウルス祭をどのようなものと考えていたかを示す手がかりが
『銀河鉄道の夜』の下書き稿にあった




最初に書いたケンタウルス祭の文字をいったん消して
「星曜祭」としようとしたことが分かる

星曜祭とは星祭りすなわち七夕のことである
七夕とは7月7日 彦星と織姫が天の川を渡って出会う夜である
賢治はケンタウルス祭に七夕のイメージを重ねていたのだった

ちなみに1月6日の半年前は7月7日 七夕である
賢治が1月6日にこだわって旅をしたのは
その日が冬の七夕だったのかと気づかされる

そして1月6日の明け方の様子を詠んだ賢治の文語詩が
ケンタウルス祭とは何かを解き明かす決め手となった


「敗れし少年の歌へる」






君だと思って見ていたあの惑星が
今夜明けの光に融けていくのが悲しい

まるで君が私に声をかけようと訪れてきて
炎のように輝いていたのに


土星がカナイであるならば、ケンタウルスは賢治である
その土星が消えた つまりカナイが消えた

敗れし少年というのは、明らかに恋に敗れし少年である
これは失恋の歌なのだ

ケンタウルス祭
それはケンタウルスと土星が出会う夜

賢治は邪な修羅である自分を半身半馬の怪物ケンタウルスに重ね合わせていた
そしてカナイをサファイア色に光り輝く土星に例えていたのである

童話『銀河鉄道の夜』は、保阪嘉内に捧げられた物語である
という視点から改めて物語を見直してみよう

(これまで聞いたことのない解釈だけれども、筋は通っている
 だからあんなに死ぬまで何度も何度も書き直して、未稿のまま終わったのだろうか?


ストーリー:
ケンタウルス祭の日、ジョバンニとカンパネルラは銀河鉄道の旅をしました

やがて3人の乗客が乗り込んできました
家庭教師の青年と姉と弟の3人は、イギリスから大きな客船に乗ったのでした






その船が氷山にぶつかって、いっぺんに傾き、もう沈みかけました
ボートにはとてもみんなは乗り切らないのです

ボートまでの所にはまだまだ小さな子どもたちや親たちがいて
とても押しのける勇気がなかったのです

みんなの命を救うために船とともに沈んでゆく人々

みんなの幸せとは何か

ほんとうの幸せとは何か



やがて銀河鉄道はサザンクロス駅に近づきます
そこは天国の入り口でした




青年と姉と弟は他の乗客と一緒に汽車を降りて行きます
他人の命を助けて自らの命を失った人たちなのでしょう

実はカンパネルラもこの人たちのような死者なのだが
何故かカンパネルラは降りない

カンパネルラが死者であることを知らないジョバンニはカンパネルラに話しかける

「カムパネルラ また僕たち二人きりになったね
 どこまでも、どこまでも一緒に行こう」

やがて綺麗な野原が見えてきました
するとカンパネルラが突然叫ぶのです

「ああ、あすこの野原はなんて綺麗なんだろう
 あそこが本当の天上なんだ

ぼんやりそっちを見ていましたら
2本の電信柱がちょうど両方から腕を組んだように
赤い腕木を連ねて立っていました




「カンパネルラ 僕たち一緒に行こうね」

ジョバンニがこう言いながら振り返ってみましたら
カンパネルラの形は見えず
ジョバンニは鉄砲玉のように立ち上がりました

そして窓の外へ体を乗り出して力いっぱい泣き出しました
もうそこいらがいっぺんに真っ暗になったように思いました

ふと気が付くとジョバンニは元の丘に戻っていました
街へ行ってみると、カンパネルラが川で溺れた同級生を助けて
水死したことを知らされたのでした


カンパネルラはサザンクロス駅で降りなかった
赤い腕木の2本の電信柱が立っている綺麗な野原で
「あれが本当の天上だ」と言っておりた

カンパネルラはカナイだ
賢治はあの野原を2人だけの天国にしたかったのである

「みんなの幸せとは何か」と言う大きなテーマと共に
賢治は好きな人と一緒に暮らしたいという自分の幸せについても
ひそかに、恥ずかしそうに語っていたのである


最後の手紙
大正14年6月25日 保阪嘉内様




賢治はカナイに手紙を出した
「来週は私も教師を止めて本統の百姓になって働きます」

これがカナイへの最後の手紙となった

カナイは大正14年に結婚し、翌年、青年訓練所の要職につき
以来、一貫して若者の農業指導に携わり
昭和12年2月 41歳で癌で亡くなった
2男1女の父だった








亡くなったとき、賢治からのすべての手紙のファイルを枕元に置いていたと言う

賢治は北上川の河岸で一人暮らしをしながら畑を耕して本気で百姓になろうとした
しかしその頃から結核性の病気で体調を崩し、昭和8年9月 37歳の生涯を閉じた



(同い年だから賢治のほうが先に亡くなったのをカナイは知っていたのだろうか?


雨ニモマケズ




手帳に残された「雨ニモマケズ」には
病のためにカナイと誓い合ったあの大きな志を果たせなかった
無念の思いが込められているように思われる


「雨ニモマケズ」


参考文献:『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』

資料提供:
山梨県立文学館
花巻市博物館
もりおか歴史文化館
下ノ畑保存会

映像協力:
国立天文台 4次元デジタル宇宙プロジェクト Mitaka

影絵:劇団角笛、まゆずみしずお



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