「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第225回 「夏が過ぎると、詩集の収穫。もうすぐ実りの、秋ですね」 タケイ・リエ

2018年07月21日 | 詩客




 詩集の出版ラッシュ時期は、夏から秋にかけてであり、世に出される多くの詩集が、この時期に出来上がってきます。この猛暑のさなか、詩人と編集者との打ち合わせが今日もどこかで行われているのですが、ほとんどの詩集は自費出版です。詩人が詩集をつくることは、とても大きな買い物であり、一世一代の覚悟が必要なのです。どんな詩集になってゆくのか、数カ月間、試行錯誤することになります。この暑さの中で、です。考えるだけで、額から汗が噴きだし、手に汗がたまってきます。
 猛暑の夏。この「夏」という漢字一文字を目にした瞬間に、たとえば、焼けた砂浜、水をたたえたプール、履き潰したゴムサンダル、熟したスイカの色、ぱちぱち燃える線香花火など、さまざまなものが浮かんでくるとしたら、それは「夏」という言葉から喚起される、人それぞれのイメージ、懐かしい記憶が呼びおこされるからでしょう。アルゼンチンの作家ボルヘスは、「言葉は、共有する記憶を表す記号なのです」と言い残しましたが、その「記号」を一冊の詩集のなかに、どれほどちりばめられるのか、表現できるのか考えながら、詩集は編まれてゆくものだと思います。

 今年度の中原中也賞を受賞した、マーサ・ナカムラの「狸の匣」(思潮社)は、日本昔話にも再三登場する「狸」を大胆に起用することで、読み手を「ふん、狸か…」と油断させておいて、ずるりと引きこみ、さらに、小さいおじいさん、天狗、石など、読み手の想像力を掻きたてる素材を、そこかしこにチラリチラリと散りばめ、民話のムードをモワモワと醸しています。この詩集の詩の多くは、少女とその家族の物語なのですが、もしかしたら読者は、そのことに気づかないまま「不思議な詩集だった…」と、読み終えるかもしれません。猛烈な少女(それも保育園児です!)が登場する「おふとん」の冒頭をみてみましょう。
愛子が目蓋の中を駆け回っている内に、闇は薄れていった。障子が乳白色の光を透かしている。飛蚊がゆっくりと落下していく。/ 隣に父がいない。無造作に置かれた青い枕に手を伸ばすと、薄地のパジャマが布団の冷たさを通して、火照った喉を潤す。掛け布団が、ふうん、と生臭いため息をついた。」この後の展開(愛子に舌を引きずり出され、破壊される父親)を予感させるにじゅうぶんな、不穏に満ちた描写に、ぞくぞくしてきます。この「おふとん」の後日譚として読むことも可能である「筑波山口のひとり相撲」においても、完璧ではない、愚かな両親の姿をマーサ・ナカムラはじんわりと変容させてゆきます。「父は天狗で/母は人間の女だったので/夜な夜な家の階段を昇ってくる何百もの蝋燭を消さねばならなかった。」家族同士の戦いは、ときに時空を歪めるほどの醜さで噴出しますが、その様子を、現実を超えた霊異な物語に仕立てています。やがて少女は、家庭から少しずつ離れてゆき、無事に社会に出るのですが、予想どおり、というか、当然のことながら苦労します。日々の淀みが重なってゆく様子を描いた「会社員は光をのみこむ」という詩篇では、詩の真ん中あたりまで、日常の風景と疲弊の呼吸に満ちているのに、走行中の車のダッシュボードの上で「とおりゃんせ」を歌う虎が登場したとたんに(この展開もほかの詩篇と同様に唐突です)空気は一変し、かつて桂歌丸が司会を務めた「笑点」を彷彿とさせる、大衆の笑いに包まれた喜劇の場面に変わります。友人の笑い声が響き、この会社員が「もう事故で死んでも構わない」と考えることも、まるでごく自然なことに思われてきます。この怪奇現象も、日々の垢にまみれた疲弊が、生み出しているわけで、いままで誰にも言えなかったことも、時空の中にどろりと溶けているあの愛も、この憎しみも、筆一本の力で面白く、愛おしいものに姿を変える。それがマーサ・ナカムラの詩の大きな魅力であり、魔法だと言えるでしょう。

 魔法使いマーサ・ナカムラの詩を読むときに使う神経とは、まったく別の脳の部分を使って読む詩集について、次に、書きます。批評家である若松英輔の詩集「見えない涙」(亜紀書房)みなさん、もう、お読みになったでしょうか。私はようやく手にとって読み終えました。これまで何度も何度も手にとってきたものの、今はまだ読むときではないと思っているうちに、一年過ぎてしまい、そのあいだに、次々と新しい著書を世に出す、強いバイタリティとは真逆の、この詩集の中におさめられた、やさしすぎるほどやさしいことばに、現代詩を読んできた読者は戸惑うのではないでしょうか。批評家として人前で話す著者の、語りのやわらかさと濃縮された一言(アフォリズムと言ってもよい)を、交互に放ってゆく様子をテレビあるいは講演で目にし、耳にしたことがあれば、この詩集の情熱と素直さに、「これは詩なのだろうか・・・」と悩むかもしれません。もっともはげしく燃えていると感じた詩篇を全文引用します。



   邂逅

 人は
 さっき
 会ったばかりの人とでも
 喜びあえる
 だが
 悲しみは違う
 大切な人とは深く
 悲しみを分かち合うとよい

 別れとは
 真に出会った者にだけ
 起こりえる
 稀なる出来事
 相手を喪うとき
 たえがたい痛みを
 背負わねばならないことを
 今を いつくしみながら
 幾度でも
 語り合うのがよい

 身が砕けそうになるほど
 悲しまなくてはならない人に
 めぐりあう
 これ以上のよろこびを おまえは
 いったい
 どこに探そうというのか



 人生半分以上も過ぎると、何年も、何十年も、愛憎を重ねた人たちと、死に別れることもしだいに増えてゆきます。若松英輔の詩は、身近な人の死に対峙し、悲しみつくした心から、しぼりだすようにして書かれたもので、いわゆる現代詩とはまったく違う色を帯びています。言葉のイメージに、突飛さも奇抜さもなく、まっすぐに線を引かれたような、これらの詩を、私たちはどのように読めば味わえるのでしょうか。納得できるのでしょうか。マーサ・ナカムラの詩との違いについて、考えます。若松英輔の詩は、書き手の力や熱が直に伝わってくるようです。(あるいはまったく力も熱も感じない、という感じ方もあるかもしれません)「相手を喪うとき/たえがたい痛みを/背負わねばならないことを」読み手自身が「感じたことがあるかどうか」も詩の味わいに影響するでしょう。それはつまり「身が砕けそうになるほど悲しまなくてはならない人に」めぐり合った者が感じる苦しみであり、その苦しみを背負ったことがあるかどうか、ということです。出会った人たちは、いずれ死にます。ひとつの例外もなく死にます。私たちはふだん、そのことを意識せずに出会いを繰り返し、生きています。若松英輔にとっての「人との出会い」というのは、この詩を読むと、たいへんに深い意味があり、また、純粋なものであるということがわかってきます。このことを自然に納得し、共感する読者には、腹の底から「沁みてくる」と感じられるのだと思います。

 以上の二冊、どちらの詩集も「これだけは、どうしても言わねばならない」という声なき声を、たしかに背負っています。作者自身の声よりも、より大きく聞こえるそれらの声の正体は、何者なのでしょうか。誰なのでしょうか。詩を書くということは、業の深いことで、明るく振る舞っているかのように見える詩であっても、そこには人が、何人もの人が、すっぽりと埋まってしまうほどの、深い業が隠れているものです。詩には、さまざまな種類があって、韻律を楽しむ詩、頭で読んで楽しむ詩、頭ではなくこころ、たましいで読む詩、いくつかに分類されると思いますが、どのような種類の詩であっても、読み手の心を動かしたならば、その詩は「力を持っている」と言ってよいでしょう。人が人として成長してゆく過程で、獲得できる経験も感情も、人によってそれぞれで、30歳のときに読んで良いとは思わなかった、心が動かなかった詩を60歳になって、あらためてもう一度読んでみて、初めてわかった、よいと思った、ということもあるでしょう。詩集には、細く長く読まれるだけの力が備わっているはずで、一時期の流行り、みんなが読んでいるから読んでおく、売れているから読んでおく、といった読まれ方とは、ほとんど縁のないことは、さびしいことではなく、実は幸せなことなのだと思います。




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