加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



 シーサイドラインの黒崎町の民家を抜けて約10kmの林道をを走ると城山展望台に着くことが出来る。七尾市街地側から登るのがポピュラーだがこのルートはあまり知られていない。
 全線舗装はされているが所々段差が出来ていたりして要注意だ。紅葉も終わり落ち葉が道路を覆い落ち葉の絨毯のようになっている。
 360度を見渡す展望台から少し下ると七尾城跡につくこんな季節に登ってくる人はさすがにいない。一昨年前の地震で崩壊した石垣の修繕もきれいに終わっている。
 今年は、能登畠山家創立六〇〇年ということで8月から10月にかけて様々なイベントが開催された。

七尾市の制作した七尾城跡の案内には謙信も絶賛 戦国の巨大山城とサブタイトルが附けられている。(以下引用)


謙信も絶賛 戦国の巨大山城


史跡 七尾城


 七尾城は、室町幕府の将軍を補佐する管領職を勤めた畠山氏の有力庶流として応永一五年(一四○ハ)に独立した能登護畠山氏(能登国守護)が、戦国時代(一六世紀初頃)に能登府中にかわる新たな拠点として築いた山城です。
 七尾城は、標高約三〇〇メートルの山頂部に所在する本丸を中心として、北側の山麓まで延びる尾根一帯を不規模に造成し、多数の曲輪(屋敷地)を築いていることが特徴で、その規模と構造は国内でも屈指とみられています。七尾の地名は、こうした七尾城が築かれている尾根が7つあることに由来すると言われております。
 また、七尾城の麓には京都の禅僧が天文一三年(一五四四)に記した『独楽亭記』にみる千門万戸の活況呈する城下「七尾」が連続して形成されていたことが明らかにされ、山上の山城と山下の城下が一体となる北陸を代表する戦国都市であったことも確認されています。国宝「松林歯屏風」を描き、画聖とうたわれた長谷川等伯は、天文ハ年(一五三九)に京風の畠山文化が開花する七尾に生まれ、その才能を育んでいます。
 平成一八年四月には、県内では金沢城とともに「日本100名城」に選ばれています。

  • 国指定史跡:昭和9年(1934)12月28日指定(大2398号)
  • 所在地:石川県七尾古府町、古屋敷町、竹町入会地字大塚14番1・2・4、15番の2




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