加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



新坂の由来(坂標より)

加賀藩前期、嫁坂のあとにできたのでこの名がついた。昔は、小立野新坂、笠舞新坂ともよばれた。

 

旧欠原町の由来(坂標より)

崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原町などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた。

欠原町の坂は新坂を境に十二人坂側から新坂に下りそこから桜坂まで上り坂になっている。


現在の欠原菅原神社(元の場所より二十人坂方向に60メートル程度行った先、右側に赤鳥居が見える)

菅原神社降り口よりもう60メートル程度で二十人坂に出る。この付近は道が迷路のように入り組んでいる。二十人坂が昭和初期に新設されたためだろう。

二十人坂の由来(坂標より)

藩政のころ、鉄砲足軽二十人をこの地に住まわせたことから、小立野二十人町、小立野足軽町二十人町などと呼ばれた。明治四年、付近の町を加えて二十人町となった。

 

この二十人坂は昭和14年旧一本松町、揚地町場を通すために盛土してほぼ直線状につけられている必然的に二十人坂の下にあった道、。川は陸橋で立体交差、または、盛り土で二十人坂に取り付けられている。


二十人坂下を通る勘太郎川

陸橋間の盛り土部分の斜面には桜が植えらされていて春には見事に花をつけ桜のトンネルになる。

もう30年以上になるだろうか、寺町台から長良坂を下り下菊橋を渡り、笠舞3丁目交差点を左に曲がってすぐに菊川2丁目を右折し二十人坂を登った。その時は長良坂は車で通る事ができた。その時には現在の小立野・笠舞線も出来ていたと思うが二十人坂の方が大学付属病院に行くには近かったのだろう。

当然病院の帰りには石引交差点から白山坂を下り小立野・笠舞線を横断して猿丸神社横を通り笠舞に降りて再び笠舞3丁目交差点から下菊橋を渡り寺町台にあっがた思い出がある。そんな生活が5年以上続いたように記憶する。それ以来この坂道を昇り降りすることが少なくなった、

昔の思い出はさておいて、十二人坂は上り一方通行なので帰り道は下りの一方通行の白山坂を利用した。

白山坂

元和5年,白山(山号・しらやま)波着寺を 広坂から小立野に移し,町名を白山町,寺前の坂を白山坂とした。波着寺は現在も白山坂の坂上にある。(「サカロジー」による)

 
左:小立野・笠舞線交差点より登り方向側を見る道は先で右方向にカーブする。右:カーブ地点より小立野通り方向を見る。


藩政時代、波着寺門前と呼ばれていたが、波着寺の山号が白山であるところから、明治4年、この名に改められた。標柱より



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