畑倉山の忘備録

日々気ままに

「全ク前代未聞」の大礼

2017年12月24日 | 天皇
内閣改造を行った大隈が次に行うべき重大行事は、11月の即位大礼であった。

11月6日、天皇を乗せた御召列車が、東京駅を発車した。皇后は懐妊のため同行しなかったが、官中の賢所が同時に運ばれた。天皇は途中、名古屋でー泊し7日に京都に入った。

沿線では、御召到車が停車した山北、沼津、静岡、浜松、名古屋、大垣、米原(まいばら)、大津の各駅はもちろん、それ以外の通過駅でも多くの人々が動員され、整然とした奉迎の光景が展開された。夜を徹して京都御所で行われた大嘗祭に続いて、天皇は伊勢神宮、神武天皇陵、光格・仁孝・孝明天皇陵、それに伏見桃山陵に参拝し、京都ー山田(現・伊勢市)、京都ー畝傍(うねび)、京都ー桃山間にも、それぞれ御召列車が運転された。大正天皇は二十日あまりにわたる大礼の日程を完全にこなしたことで、天皇としてふさわしい政治的身体を確立させたかに見えた。なおこうしたー連の日程は、1928(昭和3)年の昭和大礼にほぼそっくり受け継がれることになる。

しかし大礼は、天皇の希望通りに行われたわけではなかった。なぜなら、儀礼の簡素化や工程短縮を望んでいた天皇の意思は、結果的にやはりほとんど受け人れられなかったからである。貴族院書記官長として大礼に参列した柳田國男(1875〜1962)によれば、「今回ノ大嘗祭ノ如ク莫大ノ経費ト労カヲ給与セラレシコトハ全ク前代未聞ノコト」であり、「大嘗祭ノ前一夜、京都ノ市民ハ電灯昼ノ如ク種々ノ仮装ヲ為シテ市街ヲ練リ行ク者アリ。処々ノ酒楼ハ絃歌ノ声ヲ絶タズ」というような、大礼に乗じての派手なお祭り騒ぎが、あちこちで繰り広げられていた。

それだけではない。11月10日に行われた紫宸殿(ししんでん)の儀では、高御座(たかみくら)の天皇が勅語を朗読してから、大隈が国民を代表して寿詞(よごと)を奏上し、天皇に向かって万歳を三唱する午後3時30分に、植民地を含む全国でー斉に万歳を叫ぶことになった。実際には足の不自由な大隈が歩行に時間を費やしたため、大隈がまだ寿詞を読んでいるうちに万歳を唱える結果となったが、その光景は確かに、京都だけで見られたわけではなかった。東京郊外の北多摩郡千歳村(現・世田谷区粕谷)に住んでいた徳富蘆花は、この日の日記に「午后三時過ぎ、八幡様でも小学校でも万歳が聞こえる。 花火が上がる。吾(われ)も皇室の、日本の、人類の前途の為に祈る」と記している。

なお余談になるが、蘆花は続けて、「今朝は嘉仁君の即位を祝して赤の飯を焚(た)いた」とも書いている。明治天皇を不死の「神」のようにとらえるあまり、その死に対して強い衝撃を受けたのとは対照的に、蘆花が日記の中で大正天皇を一貫して「嘉仁君」「嘉仁どん」などと同輩のように呼んでいるのは興味深いところである。

(原武史『大正天皇』朝日文庫、2015年)

大正天皇は 1926(大正15)年12月25日、葉山御用邸で死去(享年47)