畑倉山の忘備録

日々気ままに

朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(1)

2017年12月25日 | 鬼塚英昭
反日論の萌芽は、日韓併合後に生まれている。では、三・一独立運動とアメリカの関係について次項で書くことにする。アメリカは三・一独立運動を無視し続け、日本に協力する立場を堅持するのだ。それはなぜか?

一九一九年三月一日、京城のパゴダ公園(現在のタブコル公園、ソウル市鐘路区)で朗読された「独立宣言」の第一節は「我々はここに朝鮮が独立国だということと、朝鮮人が自主民族であることを宣言する」である。

金両基編著『韓国の歴史を知るための66章』には「一九一九年三月一日、京城と平壌など九カ所の主要都市での同時多発デモから始まった三・一運動は、四月末まで二カ月にわたって全国各地で起こり、二百万人以上がマンセー(万歳)と叫びながら千五百回以上のデモを繰り広げた」と書かれている。この本の編著者金両基は韓国の立場からこの本を編集及び執筆している。続けて読んでみよう。私たち日本人は、日本側から一方的に日本優位の立場・視点から韓国を見ている。しかし、彼ら韓国人の視点に立って、一時的にしろ感情移入して読んでみてほしい。

「これほどまでに大々的に朝鮮人たちが立ち上がった背景とは何であろうか。一つ目は内的要因として、まず日本帝国の武断統治とそれによる朝鮮人と日本人の間の矛盾の深さをあげることができる。武断統治体制は銃剣とムチをもった憲兵によって維持されていた。朝鮮全体が「窓のない監獄」あるいは兵営となり、朝鮮の民衆は自由を抑圧されながら暮らした時期である。また土地調査事業の実施によって自作農と自作兼小作農の大半が没落し、小作農と農業労働者が大きく増加した。また、土地改良、綿花栽培の強制などで小作農民は大変困難な生活に陥った。そのうえ各種税金、公課金、間接税や、さまざまな農民団体の組合費なども農民の家計を大きく圧迫した。三・一運動に参加して逮捕された一万五千余りの人びとの職業統計研究の結果によると、農民が圧倒的に多く約六〇%に達していた。これはまさに苦痛の中心にいた農民たちの不満が三・一運動をきっかけに爆発したことを物語っている。」

日本の史家の中にも韓国側の立場から書く人も多い。梶村秀樹の『朝鮮史』(二〇〇七年)を読んでみよう。

「一九一九年三月一日から始まり、およそ一年もの間朝鮮全土をおおった三・一運動は、ひとりの英雄的な指導者によって象徴されるような質のものではない。多くの無名の人々の、もちこたえてきた独立ヘの意思が、ひとつに合流した民衆運動であった。たとえばソウルで学んでいたわずか一五歳の女子学生柳寛順(一九〇四〜二〇)は、宣言文を持って故郷の天安に帰り、その土地での行動の先頭に立ち、逮捕されても昂然と正当性を主張して屈せず、拷問のため獄死したことが、いまも語りつがれている。かの女はいわば無数の無名の英雄のひとりであり、運動の象徴なのである。全国二一八の市郡のうち二一七までにおいて、その土地に住む人々がかの行動を自主的に組織した。延ベ参加人数は数百万、実質的には当時二千万の全朝鮮人が主体的に運動にかかわった、といってもそう誇張ではない。三・一運動は、日本の米騒動や中国の五・四運動とともに、東アジアにおける運動の同時的昂揚としてよく一括してあつかわれるが、その中での三・一運動の特徴は、民衆運動としての拡がりの大きさであったといえる。」

私たち日本人は「反韓論」の本や雑誌を読んで「なぜだ!」と憤激している。しかし、反日の源流を過去に溯って知る努力をしていない。いかに李氏朝鮮が腐敗した国家であれ、これを糺(ただ)し、日本に併合したときに、そこに住む人々が日本人に向けた憎悪の眼差しを過去に溯って知ろうとしなければならない。日本併合によって生活が良くなったのだから、文句を言われる筋合いはない、というのは日本人の驕(おご)りである。

日本の官憲も当初はたかをくくっていた。しかし、この運動が全国的規模となるにつれて弾圧にかかった。逮捕者が続出した。当時の首相原敬は日本から軍隊を増派し、大衆集会さえ開かせなかった。デモも徹底的に取り締まった。この三・一運動で七千人といわれる死者、約一万六千人の負傷者、約四万七千人の検挙者を出した(韓国側の発表した数字)。

この三・一運動の後、統監府は武断政治をやめ文治政治、すなわち、アメとムチの政治体制へと移行する。多くの三・一運動の指導者たちは文官あるいは実業家となっていく。そして、一部のものが海外ヘと脱出する。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)