「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3 (転記3)
「保科御事歴」によれば、
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>・保科正俊:永正8年(1511)- 文禄2年8月6日(1593/9/1)
:異説・生:1509-没: 1593年
:正俊:保科正則の子:法名・月眞:
>・保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***
・:祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
・:法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571
(祥雲山善龍寺の跡地/寺名改名?)に墓/供養塔あり
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・茂林寺の供養塔は「保科正則」ということになる。「保科正俊」ではありません。
保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***(大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571)
「天正十九年辛卯年九月六日薨去(卯年九月参日との差異?)1591年9月3日に死去」とあるが、千葉:匝瑳市:法華寺にある供養塔(/墓)と比隠してみると、千葉:法華寺にある方は、「天正十九年辛卯年九月六日薨去」です。「奉再建元禄三庚午年海音比丘之」は保科家関係者の「海音」という尼さんが元禄三年に再建」したとあります。
この3日間の差異の意味することは何でしょうか。また供養塔の所在地の違いは、一体何を意味するのでしょうか?実際の死去は、9月3日で館林・茂林寺付近、、葬儀の場所は、匝瑳市/多古町辺り、祥雲がかかわる善龍寺?とか、が素直に読める。
では、戻って「法妙 祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を見てみましょう。先述では、法名」と書いてあることから「祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を法名としましたが、禅宗では「戒名」とするのが一般的のようです。現在違いを意識して使う場合は、宗派僧侶を除いてはないようですが、つまりほとんど同義で使われているが、死後の世界観に差があり、法華宗では「戒」を行わないのが流儀といわれているので、前述を訂正し、以後曹洞宗に倣って「戒名」とします。
戒名・・
戒名は、上から「院殿号・院号」「道号」「戒名」「位号」といった順番で漢字のみの列挙で構成されます。中国伝来のようです。
1:「院殿号・院号」 ・祥雲院殿 ショウインインドノ
2:「道号」 ・椿叟 チンソウ
3:「戒名」 ・栄寿 エイジュ
4:「位号」 ・大居士 ダイコジ
---・私の貧しい読解力からすれば、生前の業績をたたえるよりも、長寿を讃えているような戒名である。
祥雲院殿」はおそらく曹洞宗の寺院の建立にかかわっていると思われます。正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろうということです。つまり「善龍寺」の開基が「保科正則」ということです。
では、開山は誰でしょうか。寺院創建の時の僧侶は誰か?ということです。
荊室広琳」という名前が浮かんできます。内藤昌月」の実弟とあります。保科正俊」の子供との記述がどこにもありません。内藤昌豊の子の記述はあります。
荊室広琳」アラカルト・
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内藤昌月」の弟、上州:長生寺にて剃髪、その後松井田の「補陀寺」12代住職になる。時に、弟「内藤昌豊・昌月」は武田信玄に上州箕郷・箕輪城城代を任され、焼失した箕郷・善竜寺の再建を命じられる。善竜寺再興の際招じられたのが、昌月の弟「荊室広琳」。再興した時に、善竜寺は「満行山」と山号が改められた。
「木の下蔭」---
---・文禄元壬辰年二月九日亨寅長老に補陀寺を護りて當城の法堂院に退去す其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つてや住院幾ほどならずして緇白其徳を仰ぐ事厚し然れども城内の事なれば他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば廣く法化をなすこと能はず依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る或る夜一人の老叟來て戒法を請むことを乞ふこれを授く須叟にして老人忽ち失せて桂の池の邊りに恍惚として白龍現じ謝して岩窟に清泉を出して法施に酬むと清泉出づ貴賤手に拍つて稱す禪師を信仰す則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號くーーー・
文禄元壬辰年二月九日は、1592/02/09のことである。
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「その頃(1592)の城主内藤昌月兄弟=(保科正直)なるに依つて」とあるのだが、この城は明らかに高遠城であり、いつもお世話になっております。一般的には、保科家が、房総:多胡から高遠に帰還するのは、「関ケ原の合戦」以後としている歴史書が多い中、保科家の伝手で「荊室広琳」が高遠城内:法堂院の住職になり、その後、板町:桂泉院( 高遠町東高遠 2322)にを移したとあります。
これは不思議なことです。謎??
内藤昌月の没年は1588年(天正17年)で、小田原北条が、秀吉に攻められて落城した年号に一致していますから、この戦いの一連のどこかで戦死したものと思われますが、詳細の記録をいまだに読みません。
内藤昌月が戦死した後のことですから、「荊室広琳」を、まだ正式には保科家に戻っていない高遠の地へ招くことができるのは、保科正直が病身であることを考えれば、保科正俊以外考えられません。その保科正俊も翌文禄二年に死去します。
「保科正俊」は、歴史署の多くに記載されているように、本当に多胡で死んだのでしょうか?多くの歴史家は、存在を危うくした記録を点検照合することは当然できませんが、存在している古書の時代照合をサボタージュしなかったのでしょうか。
松井田:補陀寺 写真
補陀寺:開基・大道寺某の墓・北条側にあった松井田城主は、小田原北条敗北で散ったようです。
墓を作ったのは、補陀寺12代住職:「荊室広琳」だそうです。
「荊室広琳」という文字を眺めています。
「荊室広琳」は内藤昌月(保科正俊の三男から内藤家に養子)の弟といわれています。内藤昌月は、内藤昌豊の実子という説もかなり強く残っています。
板町:桂泉院の近く、芝平辺りを水源とする山室川が流れています。山室川の下流に近く、三峰川と合流する手前のほうに、「荊口」というところがあります。この「荊」と「室」が「荊室広琳」に使われています。このことはあるいは偶然かもしれまん。あるいは何かを暗示しているのかものしれません。
高崎・箕郷:満行山善龍寺 写真
内藤昌豊のこと・
参照:「探 三州街道」より
1:研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」
2:伊那の工藤氏について
https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/0a8381a2698bd4b0159acdced0202646
結論は急ぎません。
「法名 祥雲院殿**榮壽***」(=保科正則)と「荊室広琳」と「内藤昌月」は、事歴を確認すると深い関係性を見出すことができます。
しかし、ここには保科正俊、保科正直、保科正光との関係性を見つけることはできません。そして、多胡時代の「保科正則」と「保科正俊」も行状も確認できていません・(保科正則」は夫婦の供養塔(墓?)のみを残しています。「会津へ移設」されてしまった故か?今では房総・祥雲山善龍寺の跡さえ多胡周辺で見つけることができません。
さらに言えば、高遠でも会津でも、藩主保科家の菩提寺は、臨済宗の建福寺になり、曹洞宗:善竜寺系統の昌月、広琳、正則と血統が違うのではないかと思えてきます。
さて、茂林寺の「法名 祥雲院殿**榮壽***」の供養塔に話を戻します。つまり、茂林寺のこの供養塔の誰が建立したかということですが・・上州に一番関係が深い身内の「内藤昌月」は、天正十五(1588)年に亡くなっています。保科正直は、病気で保科家を「正光」に譲って療養中のようです。保科正光は、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、天正19年(1591年)の九戸政実の乱の鎮圧にも参加しており、多忙な日を過ごしていたようです。可能性が高いのは、残り保科正俊と荊室広琳のようです。古文書がないので断定できませんが、この「二りながら」の作業ではなかったjかと・・・。そして本流の正俊は、しばらくして死去し、本流の宗派・臨済宗・妙心寺派の寺に埋葬されたのではないかと・・・
荊室広琳は、松井田の補陀寺の第12代住職でもあったわけで、天正18年(1590年)の小田原征伐に関連して、北条側の「大道寺政繁」の松井田城が攻められて落ちており、補陀寺の大檀那の大道寺の供養で忙しかったようです。ちなみに、曹洞宗寺院の最初は、松井田・補陀寺であり、茂林寺は、補陀寺と兄弟寺(古川和尚談)だと思っていいようです。
でも、なんで「茂林寺」なのか?がいっこうにわからない。
(今回・・松井田:補陀寺と高崎・箕郷:善立寺へ行ってきました。「保科正俊」の墓は見つけられませんでした)
参考文献:平山優・真田三代 ・・保科正光は真田昌幸の婿に当たります。この書により、上野・信濃の「天正壬午の乱」を再確認・
・保科正直:天文11年(1542)- 慶長6年9月29日:(1601/10/24)
・ :保科正俊の子:法名・長元院:埋葬寺・長元院:
・ ;長元院:東京都港区虎ノ門3-15-6:浄土宗
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・内藤昌豊(「内藤昌秀」)生:1522年 - 没: 1575/6/29
・内藤昌月:生・天文19年(1550)- 没・天正16年5月25日)(1588/6月/18)
・ :戒名:陽光院南雲宗英
・ :埋葬時・箕郷・陽光山善竜寺(満行山善竜寺)
・保科正則: :法名。榮壽 榮壽
・ :祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
・法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571(祥雲山善龍寺の跡地/改名)