探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3 (転記3)

2019-08-08 11:19:13 | 歴史

「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3 (転記3)

 

「保科御事歴」によれば、

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 >・保科正俊:永正8年(1511)- 文禄2年8月6日(1593/9/1)
     :異説・生:1509-没: 1593年
     :正俊:保科正則の子:法名・月眞
 >・保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***
   ・:祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
   ・:法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571
    (祥雲山善龍寺の跡地/寺名改名?)に墓/供養塔あり
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・茂林寺の供養塔は「保科正則」ということになる。「保科正俊」ではありません。

保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***(大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571)
「天正十九年辛卯年九月六日薨去(卯年九月参日との差異?)1591年9月3日に死去」とあるが、千葉:匝瑳市:法華寺にある供養塔(/墓)と比隠してみると、千葉:法華寺にある方は、「天正十九年辛卯年九月六日薨去」です。「奉再建元禄三庚午年海音比丘之」は保科家関係者の「海音」という尼さんが元禄三年に再建」したとあります。
この3日間の差異の意味することは何でしょうか。また供養塔の所在地の違いは、一体何を意味するのでしょうか?実際の死去は、9月3日で館林・茂林寺付近、、葬儀の場所は、匝瑳市/多古町辺り、祥雲がかかわる善龍寺?とか、が素直に読める。

 


では、戻って「法妙 祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を見てみましょう。先述では、法名」と書いてあることから「祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を法名としましたが、禅宗では「戒名」とするのが一般的のようです。現在違いを意識して使う場合は、宗派僧侶を除いてはないようですが、つまりほとんど同義で使われているが、死後の世界観に差があり、法華宗では「戒」を行わないのが流儀といわれているので、前述を訂正し、以後曹洞宗に倣って「戒名」とします。
戒名・・
戒名は、上から「院殿号・院号」「道号」「戒名」「位号」といった順番で漢字のみの列挙で構成されます。中国伝来のようです。
 1:「院殿号・院号」 ・祥雲院殿 ショウインインドノ
 2:「道号」 ・椿叟  チンソウ
 3:「戒名」 ・栄寿  エイジュ
 4:「位号」 ・大居士 ダイコジ

  ---・私の貧しい読解力からすれば、生前の業績をたたえるよりも、長寿を讃えているような戒名である。


祥雲院殿」はおそらく曹洞宗の寺院の建立にかかわっていると思われます。正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろうということです。つまり「善龍寺」の開基が「保科正則」ということです。
では、開山は誰でしょうか。寺院創建の時の僧侶は誰か?ということです。
荊室広琳」という名前が浮かんできます。内藤昌月」の実弟とあります。保科正俊」の子供との記述がどこにもありません。内藤昌豊の子の記述はあります。


荊室広琳」アラカルト・
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内藤昌月」の弟、上州:長生寺にて剃髪、その後松井田の「補陀寺」12代住職になる。時に、弟「内藤昌豊・昌月」は武田信玄に上州箕郷・箕輪城城代を任され、焼失した箕郷・善竜寺の再建を命じられる。善竜寺再興の際招じられたのが、昌月の弟「荊室広琳」。再興した時に、善竜寺は「満行山」と山号が改められた。
「木の下蔭」---
---・文禄元壬辰年二月九日亨寅長老に補陀寺を護りて當城の法堂院に退去す其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つてや住院幾ほどならずして緇白其徳を仰ぐ事厚し然れども城内の事なれば他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば廣く法化をなすこと能はず依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る或る夜一人の老叟來て戒法を請むことを乞ふこれを授く須叟にして老人忽ち失せて桂の池の邊りに恍惚として白龍現じ謝して岩窟に清泉を出して法施に酬むと清泉出づ貴賤手に拍つて稱す禪師を信仰す則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號くーーー・
文禄元壬辰年二月九日は、1592/02/09のことである。
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「その頃(1592)の城主内藤昌月兄弟=(保科正直)なるに依つて」とあるのだが、この城は明らかに高遠城であり、いつもお世話になっております。一般的には、保科家が、房総:多胡から高遠に帰還するのは、「関ケ原の合戦」以後としている歴史書が多い中、保科家の伝手で「荊室広琳」が高遠城内:法堂院の住職になり、その後、板町:桂泉院( 高遠町東高遠 2322)にを移したとあります。
これは不思議なことです。謎??
内藤昌月の没年は1588年(天正17年)で、小田原北条が、秀吉に攻められて落城した年号に一致していますから、この戦いの一連のどこかで戦死したものと思われますが、詳細の記録をいまだに読みません。
内藤昌月が戦死した後のことですから、「荊室広琳」を、まだ正式には保科家に戻っていない高遠の地へ招くことができるのは、保科正直が病身であることを考えれば、保科正俊以外考えられません。その保科正俊も翌文禄二年に死去します。
「保科正俊」は、歴史署の多くに記載されているように、本当に多胡で死んだのでしょうか?多くの歴史家は、存在を危うくした記録を点検照合することは当然できませんが、存在している古書の時代照合をサボタージュしなかったのでしょうか。


松井田:補陀寺 写真

 

補陀寺:開基・大道寺某の墓・北条側にあった松井田城主は、小田原北条敗北で散ったようです。

墓を作ったのは、補陀寺12代住職:「荊室広琳」だそうです。


「荊室広琳」という文字を眺めています。
「荊室広琳」は内藤昌月(保科正俊の三男から内藤家に養子)の弟といわれています。内藤昌月は、内藤昌豊の実子という説もかなり強く残っています。
板町:桂泉院の近く、芝平辺りを水源とする山室川が流れています。山室川の下流に近く、三峰川と合流する手前のほうに、「荊口」というところがあります。この「荊」と「室」が「荊室広琳」に使われています。このことはあるいは偶然かもしれまん。あるいは何かを暗示しているのかものしれません。


高崎・箕郷:満行山善龍寺 写真

 

 


内藤昌豊のこと・
参照:「探 三州街道」より
1:研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/s/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%8C%E5%B7%A5%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%A5%90%E3%83%BB%E6%98%8C%E8%B1%8A%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E2%80%9D%E6%94%BE%E6%B5%AA%E2%80%9D%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1%E3%80%8D

2:伊那の工藤氏について 

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/0a8381a2698bd4b0159acdced0202646

 

結論は急ぎません。
「法名 祥雲院殿**榮壽***」(=保科正則)と「荊室広琳」と「内藤昌月」は、事歴を確認すると深い関係性を見出すことができます。
しかし、ここには保科正俊、保科正直、保科正光との関係性を見つけることはできません。そして、多胡時代の「保科正則」と「保科正俊」も行状も確認できていません・(保科正則」は夫婦の供養塔(墓?)のみを残しています。「会津へ移設」されてしまった故か?今では房総・祥雲山善龍寺の跡さえ多胡周辺で見つけることができません。
さらに言えば、高遠でも会津でも、藩主保科家の菩提寺は、臨済宗の建福寺になり、曹洞宗:善竜寺系統の昌月、広琳、正則と血統が違うのではないかと思えてきます。
さて、茂林寺の「法名 祥雲院殿**榮壽***」の供養塔に話を戻します。つまり、茂林寺のこの供養塔の誰が建立したかということですが・・上州に一番関係が深い身内の「内藤昌月」は、天正十五(1588)年に亡くなっています。保科正直は、病気で保科家を「正光」に譲って療養中のようです。保科正光は、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、天正19年(1591年)の九戸政実の乱の鎮圧にも参加しており、多忙な日を過ごしていたようです。可能性が高いのは、残り保科正俊と荊室広琳のようです。古文書がないので断定できませんが、この「二りながら」の作業ではなかったjかと・・・。そして本流の正俊は、しばらくして死去し、本流の宗派・臨済宗・妙心寺派の寺に埋葬されたのではないかと・・・
荊室広琳は、松井田の補陀寺の第12代住職でもあったわけで、天正18年(1590年)の小田原征伐に関連して、北条側の「大道寺政繁」の松井田城が攻められて落ちており、補陀寺の大檀那の大道寺の供養で忙しかったようです。ちなみに、曹洞宗寺院の最初は、松井田・補陀寺であり、茂林寺は、補陀寺と兄弟寺(古川和尚談)だと思っていいようです。


でも、なんで「茂林寺」なのか?がいっこうにわからない。


(今回・・松井田:補陀寺と高崎・箕郷:善立寺へ行ってきました。「保科正俊」の墓は見つけられませんでした)
参考文献:平山優・真田三代 ・・保科正光は真田昌幸の婿に当たります。この書により、上野・信濃の「天正壬午の乱」を再確認・


・保科正直:天文11年(1542)- 慶長6年9月29日:(1601/10/24)
・    :保科正俊の子:法名・長元院:埋葬寺・長元院:
・    ;長元院:東京都港区虎ノ門3-15-6:浄土宗

・内藤昌豊(「内藤昌秀」)生:1522年 - 没: 1575/6/29
・内藤昌月:生・天文19年(1550)- 没・天正16年5月25日)(1588/6月/18)
・    :戒名:陽光院南雲宗英
・    :埋葬時・箕郷・陽光山善竜寺(満行山善竜寺)
・保科正則:      :法名。榮壽 榮壽
・    :祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
・法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571(祥雲山善龍寺の跡地/改名)


「消えた槍弾正の墓の行方探し?」  茂林寺 :2 (転記2)

2019-08-08 11:17:30 | 歴史

「消えた槍弾正の墓の行方探し?」  茂林寺 :2 (転記2)


さて、本願・
ここに来た理由は、下記の文を目にしたからに他ならない。


参照:---- ・天正19年(1591)9月6日に正則、文禄2年(1593)8月6日に子の正俊が亡くなる。
それぞれ上州館林の茂林寺や内藤昌月父子墓のある箕郷善竜寺に墓があるとも伝わって ・ ----・保科正則夫妻の墓 飯高法華寺:▲大乗山法華寺の保科正則夫妻の墓・----(to KAZUSA)
本当に、保科正俊」の墓が、茂林寺にあるのだろうか?と来てみたわけである。内藤昌月父子は、厩橋(高崎)の箕郷、--・箕輪城からも、保渡田城からも、案外遠い館林の地・・

 ここで、歴史好きにはある程度メジャーだが、普通は「知る人ぞ知る」ぐらいの「保科正俊」について概要を説明しておく。興味の薄い人は、・・ままに。

保科正俊は -----・戦国時代の武将。保科正直、内藤昌月などの父。はじめ、高遠頼継の家老。後に武田信玄の家臣となった。信玄の戦役に務め、「槍弾正」の功名を挙げる。子息:保科正直は家康の家臣、家康の養女を妻に迎えた。正直の子の保科正光の妻は真田正幸の娘、子ができなかったので三代将軍:家光の弟:正之を養子に迎え、やがて保科正之は会津松平藩の祖となり、家光の幕政を助ける。内藤昌月は、正俊:息から内藤昌秀(昌豊)の養子になる。内藤昌豊は、戦国時武将。信玄の家臣で武田四天王の一人。戦上手と言われ、敵城を自分の軍も相手の軍も損なうことなく幾つも落としたという伝承の持ち主。小笠原亡き後の松本城の城代を務めた後、厩橋(今の高崎)の城代を務める。厩橋時代の居城は、保渡田城か箕輪城。・-----
-----・保科正俊は、織田信長の「武田攻め」で高遠を追われ、息子のいる厩橋(高崎)に落ちる。隠棲先は保渡田城と思われる。信長横死のあと内藤昌月の兵を借りて、息:正直とともに高遠城を奪還し、すぐに家康の家臣になる。秀吉の世に、後北条攻めがあり、家康は、五国太守から関東:江戸へ入封される。家臣も随伴。保科正直は、房総:多胡へ1万石で入封される。この多胡時代に、正直病気のため、息:正光に相続。正俊は、正光が多胡城主時代に没。・-----


茂林寺・門前風景


門前の土産物屋の店は寂しく、うどん屋は店を閉めている。寺が、格式が高そうなのに比して、これである。
それはさておいて、寺門をくぐると、茶釜の狸が参道の両脇に並列して迎えてくれる。壮観である。

 

 

左手が墓地のようである。左手の墓地に足を踏み込むと、手前の墓は真新しいが、奥へ行くにしたがって、古びて苔むしたような墓石が散見できる。あればあの付近だろうと当たりを付けて寄ってみる。古いのの大方が、居士:大姉の二つながらを刻印した夫婦募石であり、対象から除外・・それに墓石が古いのは、刻印が崩れて、天正や文禄の文字が読み取れない。中には宝篋印塔らしきもあるが、供養塔の場合が多く、たまに墓塔としても扱われるという。文字の判読が能わず・・


半ばあきらめ、御朱印を記帳してくれるご婦人のところへ行き、「ここに戦国時代の保科正俊の墓があると噂できてみたが、知らないか」と尋ねてみた。
暫くして、ご婦人は、この寺に住職を連れてきてくれた。

 


茂林寺の住職によると、どうもそれらしき塔があるという。この塔を訪ねて、高遠から人が調査に訪れ、「保科」に関連がありそうだから塔を高頭に持っていくといったらしい。かなり乱暴な話である。
住職は、その塔に案内してくれた。


その塔は、「宝篋印塔」に近いが「宝篋印塔」というには不足物があるようで・・住職に言わせると、長年の歳月で、塔基下方部が損壊したのかもしれないという。「宝篋印塔」が墓でないとは言い切れないが、供養塔である場合が圧倒的に多い。

 

刻印された文字は、私には・・ところどころ・・しか判読できないが、さすが和尚・・は、なんとか判読してくれた。
それが以下である。

             

・「祥雲院殿椿叟榮壽大居士」は保科正則の法名である。正俊ではない。

でも、なんで、「保科」の供養塔(墓?)が茂林寺にあるのか?

  -----・次回に解析を試みます。また、茂林寺住職・古川正道氏の丁寧な応対、協力と判読に感謝いたします。


茂林寺 :1  (転記1)

2019-08-08 11:15:00 | 歴史

茂林寺 :1  (転記1)


「蝶々の 婦ハリととん多 茶釜哉」 一茶


 ・・・> 「蝶々の ふわりと飛んだ 茶釜哉」



茂林寺は「狸」が出迎えてくれる「面白い」寺です。


室町時代中期の応永33年(1426年)に開山。山号「青竜山」

寺院開創の創立者を「開基」、開創僧侶のことを「開山」というが、茂林寺は開基」開山」が同じで「大林正通禅師」というらしい。「開基」と似た言葉で、別当」とか大檀那」というのもあるが、これは経済的な協力、つまり「スポンサー」と理解したほうがよい。


この寺の周辺は沼が多く、館林駅近くは「城沼」がありそこの「躑躅ヶ丘公園」は躑躅の名所であり、この寺の裏側の「茂林寺沼」は自然の宝庫である。さらに、白鳥が飛来するという「多々良沼」もあり、利根と渡良瀬に挟まれたこの地は、この両川の洪水が乱流し「沼」を残したという説が残っている。おそらく本当だろう。


今は「花」の季節でもないし「花」を見に来たわけでもない。だが、この沼の多き付近は、つつじ」を始めとする花の名所が多い。季節には多くの見学者を集める。


「狸」見学も副業である。

 

目的ではないが、折角なので馴染んでいくつもり・。ちなみに、ここの「狸の置物」由来は、童話:「分福茶釜」の発祥の地に因するとされている。

 

(「分福茶釜」割愛)