まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【俳句の終焉】俳句が《定型》でないなら誰が何のために書くのか?/新俳句入門

2019-01-28 02:04:07 | 新俳句入門

山頭火にあったかもしれない鬼の細胞   夏石番矢  最新句集『鬼の細胞』より *アマゾン(ネット)通販中!

また週が明けようとしている。今度は週の途中で【新年】そのものが終ることになる。今度の週末は2月の最初の週末ということだ。昨日の参加俳句誌の新年会は結局出席出来なかった。金銭面や体調もあったが、1月18日の浅草寺初観音詣りと翌日の警察沙汰以来、生活のペースが乱れたままである。あまり良い1年の始まりとは言えない。しかし、そんなことを言っている暇も無いほど諸事緊迫している。今この時からやるべきことをキッチリやり抜くしか途は残されていない。代表は昨夏に入院手術するなど病み上がりである。出ていれば実物を見せるつもりだった超健康食品も紹介出来なかった。これが彼の運命の別れ道かもしれない。どうやら初期の消化器ガンだったようだ。また、世代的な一体感から、健康を害してまで《俳句》に自己投企(サルトル)する価値があるかどうか問い質すことも叶わなかった。21世紀に入って、人間の主体(個体)性や実存(弁証法的な自己認識)は完膚なきまでに失われつつある。インターネットや検索(擬制された認識・行為)で何か新たな人間観が得られるのだろうか?その最終確認を【俳句形式】で行うことが不可能であるなら、すでに私(たち)の知らないところで俳句は【定型性】を喪失していることになる。あるいは、元々《俳句》は定型詩ではなかったのだろうか。・・・《続く》

 

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ヒーリング 夜明け

https://youtu.be/z1VflUqcHkU?t=107