まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【私もまぼろし】断ち切られた《自我》の連続性と実存の不成立/続夏石番矢を読む(5)

2019-12-10 10:28:31 | 俳句ファンタジー

死者にしてとわの若者わが扇子を受けよ     第五章「黄色い滑り台」

水のかたまり時間のかたまり湧いて砕ける

カルメン故郷に帰らず黒猫を抱く

私もまぼろし生ごみ臭う駅の南

鯛刺を買う融け出しそうなからだのために

 

私たちは何の前触れも無しに1980年以降という【断絶】の彼岸を生きることを余儀なくされた者である。そのことの橋頭堡となったのが《1970年》の不可逆性であり、その後10年はまさに【断絶】そのものであった。この世界の《実存》の組み換えを、不可視の【世界性】の体現者によって頭ごなしに宣言された。それでは作者そして私たちのその間の在り様はいかなるものだったのか。掲出の句群はそのことをあまりにも誠実かつ剥き出しに表現して余りがある。「死者にしてとわの若者」とは、他ならぬ作者自身であることは実に痛々しい。《水のかたまり》《時間のかたまり》と反復されるのは、自らの身体性そのものであり、まさに出自不明のまま湧いて砕け散っていった。「カルメン故郷に帰らず(原題帰る)」とは戦後の名画の題名であるが、その内容とは正反対に何者にも受け入れられることなく「黒猫を抱く」という非選択の選択に追い込まれてしまう。そのあげく、自我の不成立のまま《生ごみ》同然の境涯に苛まれる他なかった。それはポストモダンという、時代間の【断絶】さえ成就することのない《空無感》そのものの体現であった。最後の「鯛刺を買う」という隠喩(メタファー)は、私たち同世代の言うに言われぬ自己保存本能を意味しており、その目的は「融け出しそうなからだ」のためであった。それでは、作者は1980年以降の《空白》の現実(此岸)をどのように在り続けたのだろうか。・・・《続く》

 

 


死者にしてとわの若者へ奉げるオマージュ/続夏石番矢を読む(4)

2019-12-10 08:41:24 | エッセー・評論

今日という一日の始まりである。そして、いよいよ60歳代後半に入る。高齢単身者・低年金者であり、いまや人類の存立根拠を突き崩すかのように全世界を席巻するITネットによる【情報寡頭制】の電磁監視対象(被験)者である《自我》との融和(自律)を生涯のモチーフとする日常の一コマがいま再び動き出す。そんな私のごくありふれた生活過程において、日本近代の擬制的言語(表現)様式の一つである【俳句形式】はいかほどの価値を有するのだろうか。その擬制された近代の延長上にあって、もはや現存性のはなはだ薄いハイクなどというものが、この一瞬も何故かある種の威力を奮っている。夏石番矢句集『氷の禁域』(2017)である。実際、私はほぼ毎日この一冊をどこに行くにも持ち歩いている。だからと言って、手垢が付くぽどに読み込んでいるというわけではないが、少なくとも身体の一部のように親しみを感じ始めていることは確かである。例えば、集中に次のような一句が存在している。

古本市の金平糖のような時間にいる     第三章「雨に麻酔」

作者は私とほぼ同世代で、1970年前後に全世界に吹き荒れたカウンター・カルチャーによって《個》としての人間の一大進化に見舞われた。現在、彼の勤務先がある東京神田の古本屋街は、何かの書物を求めるでもなしに繰り返し訪れる異空間であり続けているに違いない。そのレトロな風趣の中に流れる《金平糖のような》時間とは、決して尋常な出来事ではない。金平糖とはどのようなものか、手許の電子端末で検索してみるとよい。それは淡い原色の角ばった実に懐かしさと親しみに満ち溢れていると同時に、もはやこの現実のどこにも見当たらない何ものかである。・・・《続く》