今日は総選挙の投票日である。台風が迫っているので、当日はあまり動きたくはなく、水曜には期日前投票を済ませた。ある野党の地方議員は、俳句はダメと根底から否定した。他党も多かれ少なかれ伝統文化には否定的である。私たちが固有の自己表現の手段としている【俳句形式】は、もはや【定型言語】とは言えないのではないか?言語の《定型性》とは、全社会的な承認が前提となるのなら、もはや俳句は定型ではない。それでは、わたしたちは何故【俳句形式】に拘るのだろうか。もともと俳句表現は《形式》を超えてゆく恣意的な言語表出とは言えないだろうか?もし、俳句が表現者の内在律として《形式》を超えることが出来るのなら、その短さからして極めて大衆的な表現形態となる可能性がある。現代(前衛)川柳との親近性にも注目される。より恣意的な無季・自由律を含め、十七音数律の【定型の壁】をあっさり突き破る、全く新しい現代日本語の表現を生み出すことにもつながる。お~いお茶新俳句大賞や俳句甲子園などの新世紀のライトバース俳句が大いに注目される由縁である。但し、NHK俳句やプレバトなどの、マスメディアを浅はかに利用しての俳句の伝統的なイデオロギー(=有季定型至上主義)を垂れ流すだけの俳壇官僚の保身行為は論外であろう。・・・《続く》
残念ながら、今回の選挙では《希望》の二字は定型性を持ち得なかった。