私の最初の俳句入門は1979年だった。ニッポン放送【オールナイトニッポン】の俳句コーナーである。それから、いくつかの結社と称する俳句雑誌と総合誌などに投句し、1985年には句作そのものを休止した。それから長い長い28年が過ぎて、2013年にブログ上で句作を再開した。今月で、ちょうど4年経った。二つの結社にも入り、同人にもなったが、今回もやはり結社はダメだった。一誌は同人昇格わずか1年で終刊となり、もう一誌も同人辞退を余儀なくされた。俳句形式の定型性そのものが自分には合わないのだ。今夜、つい先ほどその主宰と話したが、やっぱり主宰に収まっているだけあって話がどこか決定的に食い違っていた。現代の俳句はポエジーというのが主宰のモットーだが、俳句がポエジーであるために結社は必要なのだろうか?むしろ桎梏にならないか?俳句はあくまでも純然たる個人の手による一行の短詩であり、結社という《座》の独占形態は無用である。ここにも俳句は《座》の文芸であり、結社の所有物とのドグマが生きていた。かの高柳重信が、俳句総合誌としての『俳句研究』と同時に同人誌の『俳句評論』を刊行し、最後まで結社を主宰しなかった理由がわかった。最近、旧知の俳人の好意で参加した同人誌があってよかったと思う。この同人誌の代表は『結社は化石以前の非存在』と語っていた。ちなみに彼は、これまで一度も結社には加わっていない。・・・《続く》
著者の沢好摩は『俳句評論』の元同人で、現在同人誌『円錐』代表。やはり、入門時の一時期を除いて俳句結社とは無縁だった。