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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

天皇(すめらぎ)に火蛾燃え移ること国史 谷口慎也/連衆71号を読む

2015-09-04 08:20:29 | エッセー・評論
 ひよどりと話したいのだ日本について   鈴木瑞恵(口語)
 ワタシからいつかタワシへ移行する    佐藤みさ子(川柳)
 木下闇君は本田圭祐だろう        石原明
◎天皇(すめらぎ)に火蛾燃え移ること国史 谷口慎也
 映写窓蝶一斉に放たれる         川村蘭太  

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虚空のせせらぎ(3)ー『団塊俳人競詠』を読む/連衆72号

2015-09-03 15:28:28 | エッセー・評論
米櫃に櫻が残るこの世かな   久保純夫
前後の句からもこれは実景ではない。現実の眼前のモノコトなど、この作者にとって見えて来るはずもなく、観念の牢獄の格子の隙間から覗かれる《桜なるもの》の一瞬の残滓が、「米櫃」という現存性のフィルターを通して何事かを語ると仮定されている。この世とは《団塊の世代》という特殊フィルターを通しても、通さずとも何も語りはしない。『絶倫や櫻の術が満ちており』『木蓮に身投げをしたる男かな』『木蓮を植え終わりたる左肩』『木蓮の内なる禁忌持ち歩き』と、所与の対象に〈身投げ〉をしたところで、たかだか〈肩〉という己れの肉体の一部が元々の姿のまま残されているだけのことである。作者にとって観念の祖型としての《内なる禁忌》こそが仮の到達点である現在に聳え立っている。しかし、このことは出発点にあってすでに確かな予兆として《団塊の世代》の肉体に深く刻まれていたのではなかろうか。

鳥帰るやがて孤影の紺世界   大井恒行
トランス(忘我)という言葉がある。「孤影」であるが故に《確かなるもの》として自我の投影された「紺世界」、いわば《紺そのもの》の渦中に作者の《意識》は現在も投げ出されている。作者が求めて止まないのは「鳥帰る」の時系列とは全く別個の、作者の発する個有の《定型言語》によって断ち切られ、同時に作者の言語意識を押し込めてしまう《いつか・どこか》の記憶として仮構された空間である。

ゆくも魔道の/言霊/赫し/虚空のせせらぎも   高原耕治
高原氏には20年前に一度横浜(当時)の拙宅にお寄りいただいたことがある。氏はまだ40歳代半ばであったように思う。中学生になる子供がいるが、家庭というものが動物のようでイヤだ・・と語っていた。この日、同人誌(第二次未定)の句会の閉会後、氏の富沢赤黄男や渡辺白泉についての名講義が延々と続き・・3次会のカラオケでの私の『愛燦燦』に「君は歌えるのか」のお言葉をいただき、・・タクシーでの帰路の途中でのことであった。新句集『四獣門』については谷口慎也氏の評を待ちたい。【了】


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虚空のせせらぎ(2)ー『団塊俳人競詠』を読む/連衆72号

2015-09-03 14:07:23 | エッセー・評論
弔いの家の大きな夏木立   あざ蓉子
この句の内容ははどこかの「弔いの家」の庭に「夏木立」が聳え立っている、というにすぎない。しかし、作者が全共闘世代であり、掲載誌の《団塊の世代》というフィルターを通して読み直せば、その句作の背景が一変する。「弔いの家」とはかの時代の自明なる変転の一瞬々々の総体を指している。その渦中にいた作者もまた変転極まりない日常を送っていたはずだ。では作者の青春期を彩った時代の自明性が、他ならぬその時代を超えたいかなる普遍性を獲得し得たのであろうか。その手がかりは作者が選んだ言語表現の場としての《俳句定型》において色濃く刻まれているに違いない。

陽炎に空瓶がかたまってをり   仁平勝
前句に『ごみの日に春の鴉が来てをりぬ』とあるので、ゴミ出しの際の偶然の光景を詠んだものであろう。陽炎のたゆたう視界の先に「空瓶」が固まって置かれていた。空瓶とは本来中身の費消された空虚な存在であるが、この頃はリサイクルされ瓶として何度でも再生される。しかし、この作者にとって〈空瓶〉とはあくまでもその瞬間の〈空瓶〉のままであり続けている。その時間の《かたまり》こそが、作者にとって生きて存る根拠であり続けているはずだ。他に『歩行者に天国があり夏来る』があるが、この一句、あっさり《歩行者天国》と言ってしまえば、公共施設としての既存の在り方に一元化されてしまう。そこでは作者は《歩行者天国》の一構成要素にすぎない。ところが「歩行者に」「天国があり」と分割することで、一人の《歩行者》である己れを見事に蘇らせることに成功した。歩行者の一人々々にこそ《天国》はあり、あの輝かしい夏の季節が再び訪れても来よう。・・・《続く》

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虚空のせせらぎー『団塊俳人競詠』を読む/連衆72号

2015-09-03 12:52:00 | エッセー・評論
団塊の世代とは昭和22~24年の戦後のベビーブームに生を享けた一群の人々をいう。ただそれだけのことであるが、彼らはかの全共闘世代であり、世界の総体にNO!を突き付けたカウンター・カルチャーの担い手であったことを忘れてはならない。世界と人間存在の全てがある一瞬の光芒を発して流れ出し、消えて行った時代をその目で確かに目撃した稀有な世代と言える。「俳句」7月号に特集された団塊の世代の典型的な表現から、その目指して来たものの現代における帰趨を見届けたい。

群れゐても凭れはしない蓮の花   山崎十生
「群れ」という言葉は通常あまり良い意味では使われない。案の定、この句でも「群れゐても」と群れることを否定的に把えた上で、「凭れはしない」と把え直している。つまり〈群れ〉につきものの〈凭れ合い〉という在り方との緊張関係を表現している。そのことを一本々々が独立して屹立する蓮の姿が象徴しているのであって逆ではない。この逆ではないということがここではとりわけ重要である。彼らにとって眼前の〈蓮の花〉という関係(他者)性は、個々の表現主体において、あらかじめ乗り越えられているからである。・・・《続く》


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無口な薔薇/連衆70号を読む(3)~プロローグ4の始まり(その50)

2015-04-14 21:32:04 | エッセー・評論
同人作品は特別作品とレギュラーの10句に分けられる。まず夏木久の『無口な器』(45句)である。

その口が入口春の器への
花器に挿し無口な薔薇にしてしまふ
入口を月にしてより出口なし
裏口の時雨に待てり継走者
器には口のうるさき冬日向
入口を出れば出口や春隣


何より《口》の一語が入った句群が目に止った。タイトルも《無口な器》とやはり《口》が入っている。思うに作者は己のある想いを言葉にして盛る器としての俳句型式を日常の中で自在に使いこなし、発語(詩)との距離感を最初から無きものとすることを夢想している。そのことによって人間と世界とのダイレクトな交感が成立し、反言語(世界)としての定型言語の過渡的な役割は終わる。その成否は「湯豆腐をつつく空席」を悔やみながら「裏口の時雨」の止むのを待つ他ない。継走者とはもとより俳句の奥深く在り続けている作者自身なのだから。

特別作品の二人目は新参加の宮崎干呂の『凍るよコール』(22句)である。自己紹介で《世界の壊れ具合》と《ヒトの心の冷え》に思いを馳せ、字数と音数の一致した和語を超えた自由な音数律による新たな表現媒体を講想する。

ジェラルミンに映して角出すなめくじら
泉浚いし小人らのシャベルにバーコード
森と泉に囲まれて廃址よ猛きベクレル
聖霊や木枕たたかれ戦みち
エボラの結界破りしに冬未曾有
宮城は護憲のとりで霜をふむ


ジェラルミン、バーコード、ベクレル、エボラ、護憲・・と《うつつ》なるものの残滓が遂に何ものも果たし得なかった無念を発散する。しかしそのどうにもならない沈黙の渦中にあっても俳句型式はやさしい。これらも俳句以外の何ものでもあり得ない。まるでわたしたちの存在の根から吹き上がるひとときの生の熱気を表徴しているかのようだ。

夢一俵うつつよりマシか落葉つむ

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