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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

ひとときによく似た鳥/連衆70号を読む(2)~プロローグ4の始まり(その50)

2015-04-14 01:27:50 | エッセー・評論
二人目の招待作家は現代川柳の内田真理子である。口語体で一見日常語に近い語り口だが、ここでもやはり定型言語に乗る前の自我は曖昧模糊としたつかみどころのないものである。それがいったん定型性を持ち始めると出処不明の揺らぎを孕み、読み手の言語意識をも巻き込んでいく。

波頭ざぶんと日付変更線
信号が長くて春は遅れます
ありえへん言葉ぽっつり梅の花
これは海これはひまわり口移し
彼方にはこちたくねたく薊咲く
晩夏考まばらに椅子が置いてある
静止画像に取り残されるしろうるり
くじらを森に帰す時間だ鐘が鳴る
神の木を蝕んでゆく神の虫
ひとときによく似た鳥を茹でている

作者の日常とは波頭のざぶんという音、信号が長いと感じたり、その時々の意表をつく言葉、口移しに等しい身近な発語・・と意識の内外を予期せず貫く言い知れない存在感に満ち溢れている。そこから時折意識の表層に降りかかって来る彼方や未来の浮遊する薊や誰が座るのか不明な椅子に混じって、まるで静止画像のようにそこにあったかのように取り残される自我像(=しろうるり)が見え隠れする。その自我像の揺らぎがふと黙示する普遍なる大きな時間の予兆【くじらを森に帰す時間】に次なる自我の在り処を作者は見ている。神の宿る木を蝕む時間の変容をかいま見ながら、すでに虚空に消え去った鳥のようなひとときを密やかに定型言語の記憶として止めようとしている。ことさらに儚いが愛しい至福の光景の手触りの中で作者は世界を俯瞰し続けている。・・《続く》

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爆発の予兆の空のいいにおい 後藤貴子/連衆70号を読む(1)~プロローグ4の始まり(その50)

2015-04-13 02:47:03 | エッセー・評論
手許に連衆70号がある。代表の谷口慎也氏をはじめ論客揃いの当誌とあって、巻頭言あたりから何か感想を述べてみたいが、何よりもまず作品鑑賞から入りたい。毎回外部よりの招待作家の連作が巻頭を飾る。今号は俳人の後藤貴子と川柳の内田真理子の各22句である。まず後藤作品は『荒寥と』と題するもので表題の通り作者の意図しての荒寥とした心象風景を1句々々に落し込んでいる。

蝶二頭重なる沼の荒寥に
乳母車霧の重さのあかんぼう
ポッキーの日の大倭折れてゐし
まぐわえば空気の抜けるマリア像
積分の解けぬどじょうの荒ぬめり
春暁のひだるきものにのどちんこ
爆発の予兆の空のいいにおい

意味鮮明でなおかつ心に残るものを抜粋してみた。もとより現実の光景ではない。作者にとって対象となるものの独りよがりな擬似認識などどうでもよく、外界との一次的な交感の渦中で違和感とも一体感とも違う何らかの空間性を言葉(喩)に定着することが目指されている。蝶二頭の交尾の姿の荒寥さ、乳母車のあかんぼうにかかる霧の重量感、聖マリア像の俗なる空虚、どじょうに仮託した己れの存在の荒々しいぬめり感。そのあげく春暁のひだるさの実感の元凶として言葉を発する異物としての「のどちんこ」に思い到り、全ての荒寥さの一瞬の帰結としての「爆発」の予兆の空のにおいに達する。そこで初めて《いいにおい》として外界と分け隔てない己の生存の証しに遭遇する。荒寥とは作者の内部と外部をつなぐ不分明さを〈俳句〉という定型の現場でかろうじて言い止めることに他ならない。・・《続く》

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火事/坪内稔典のベスト3~プロローグ3の終わり(その312)

2015-01-20 02:46:04 | エッセー・評論
『坪内稔典の俳句』(創風社出版)の刊行にあたり、同氏が代表を務める俳句会員誌【船団】で全会員を対象にベスト3句を選出することになった。昨日私にも通知が到着し、早速ネット上で見直してみた。私が選んだのは次の通り。どれもよく言われるユーモアなどとはかけ離れた突出した情況句となっている。感想は別項で・・。

たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ
桜散るあなたも河馬になりなさい
飯噴いてあなたこなたで倒れる犀

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プロフィール&「船団」の戦略/連衆71号(2015年3月予定)~プロローグ3の終わり(その289)

2014-12-30 21:00:34 | エッセー・評論
1979年頃深夜放送の俳句コーナーで入選したのをキッカケに俳句に入門。坪内稔典氏の「現代俳句」、旧「俳句研究」などに投稿後「地表」同人。80年代中に句作を休止する。昨秋20数年ぶりにブログで再開。大学在学中は現代詩や作詞をやっていた。音楽制作を目指したことも。
21世紀の現在、俳句が存続していること自体が不思議。幸か不幸か生活上の必要性から毎日句を作って各誌に投稿しているが俳句史からは切れている。投稿先の各誌もすでに解体過程にある。私も最近参加した坪内氏の「船団」も何ものか不明な言葉らしきものの残骸を曝すだけだが不思議と悲壮感は見られない。ここまで書いてみてふと気付いたのだが、この空白感はそれぞれの内面にこそ向いている。外部に向かう方途はとうの昔に喪われている。その一人々々の他を寄せつけない空白感が〈俳句定型〉に盛られたときある種の純粋性を生み出すことに賭けているのかもしれない。

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高柳重信選の想い出/2020東京五輪に向けて思う~プロローグ3の終わり(その165)

2014-10-14 16:07:49 | エッセー・評論
俳句の初学者にとっていずれかの結社に所属し、主宰者の選を受けることと並んで総合誌の雑詠欄に応募するという道がある。私が20代で俳句に入門した頃、俳句の世界は有季定型を重んじる伝統派とそれに飽き足らない前衛派に二極分解していた。そのうち前衛派の拠点となっていたのが故高柳重信氏が編集発行人を務めていた旧「俳句研究」誌であった。同誌は年に一度の新人登竜門「50句競作」と並んで毎号巻末の雑詠欄で3ヶ月毎に選者を交代して募集していた。ここで運良く推薦(1位)していただき後に同人にもしていただいた「地表」の小川双々子先生に続いて、高柳重信氏自らが選者を務めた。そのさいの応募作が次の句で明らかに失敗句であった。
 呆けたる左手に春の傾斜あり
選評で『呆けたる左手は面白い。しかし〈春の傾斜〉とは何であろうか。再考すべきだ』との御指摘をいただいた。
それから1年ほど過ぎて高柳氏も帰らぬ人となり、同誌も廃刊となった。私はこの句を次のように直して「地表」の同人自選欄に載せていただいた。
 呆けたる左手野菊を曳き出せり
これが成功したかどうかは今もってわからない。したがって自信句では到底あり得ない。

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