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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

みょうに明るい木/豈(あに)を読む(1)~俳句のサバイバリズム

2017-02-03 14:27:39 | エッセー・評論
今日は節分の日である。気温は12度まで上がった。戻ったと言うべきか。30日の月曜は20度あったからだ。私にとって日々の気温は死活問題である。60歳を過ぎて身心と外的自然とのバランスが取りにくくなっている。また毎晩の数時間の【夜歩き】で自分を鞭打つことで本業に加え句作を己に促している。もはや暖房の効いた環境のみでは生きてゆくことが上手く立ち行かなくなっている。私の日常の趣味や趣向は《俳句》のみではないが、とりわけ生きてゆく上でのあるがままの《自我》の輪郭を浮き立たせるには外界との直接の関わりが欠かせなくなっているということだ。ところで、俳句同人誌「豈(あに)」の最新号(59号)が昨日届いた。手許にあるのは57号の1冊のみである。新着分を開封する前に、ここから1句を引いてみた。編集人の大井恒之の作品である。・・・《続く》

桐一葉落ちればみょうに明るい木   大井恒之  *『題抄』(11句)より

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【俳句の此岸】ヘーゲルの苦笑・・絶対個の不可能から始まるもの/結社の大型新人(3)

2017-02-01 21:44:20 | エッセー・評論
前記事までに、中山宏史氏の所属結社新人賞受賞作『山頭火』(20句)から次の2句を引用した。【時雨忌やどうやら俺はエグザイル】【ヘーゲルの苦笑を背に初詣】である。1句目は芭蕉の《旅立ち》と現代人の日常性の孕む《非日常》への衝迫を重ね、エグザイル(故郷喪失者)としての己れの《現在》を提示した。この矛盾を生きることは、作者にとって芭蕉の切り拓いた寄る辺無きものとしての《俳句》の不可能性を生きることにつながってゆく。それでは、2句目の「ヘーゲルの苦笑」とは何ごとを言うのだろうか。
その前に中山氏と昨秋の結社大会と先月の新年句会で会った時の印象について書いておきたい。彼は77歳で60年安保世代の一員であった。60年安保とは戦後の復興を成し遂げた後の次なるステップとしての《成熟》へ向かう狭間に全国的に巻き起こった異議申し立ての運動であった。彼もまた学生時代にその渦中に身を置き、世界と人間の全体性の回復(変革)へのうねりに身を任せていた。そして運動の敗北とその主体の一部としての絶対的な《》の不成立を目の当たりにして立ち竦み、何の確信も得られないままただ生きて存り続けるために社会に押し出されて行った。そして就職・結婚そして《老い》という即物的な時間の経過の中に身を置かざるを得なかったに違いない。彼自身の語るところによれば、定年退職とその後の数年を了えた後に俳句表現と出遭い、今日まで10年近い歳月を経て来たのだという。・・・《続く》

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【俳句の此岸】芭蕉・ヘーゲル・・エグザイルなるものの所在/結社の大型新人(2)

2017-01-24 09:15:02 | エッセー・評論
ヘーゲルの苦笑を背に初詣   中山宏史(所属結社誌新人賞・77歳)

前記事に掲げた【時雨忌やどうやら俺はエグザイル】はかなりの傑作ではなかろうか。主宰は稀に見る大型新人と掲揚した。その主宰とは戦後俳句の生き証人(筆者が命名)である。エグザイルとはあのエグザイルであるだけでなく、その出所のエグザイル(故郷喪失者)の意味を兼ね備えている。
・・氏は言う。「エグザイルとは故国を喪失し放浪する者のこと(中略)元々エグザイルは二〇世紀終盤にブレイクした米国の思想家サイドが捨てた故国を捨て切れず、米国に組せずパレスチナの民に寄り添う言論を展開します。(中略)私はエグザイルな気分の中にサイードの苦痛と芭蕉の再び帰らぬ非日常への出立の想念がゆらめいています」(中岡昌太「各賞管見ー詩的構築への風景ー」)
ヘーゲルの苦笑そして《エグザイル》なる存在の苦渋、この二つに中山氏の出発点と到達点が見え隠れする。まずこれらの縮めることは不可能と思われる間隙に何があるのかを探ってみたい。・・・《続く》

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【俳句の此岸】どうやら俺はエグザイル/結社の大型新人(1)

2017-01-23 14:57:51 | エッセー・評論
時雨忌やどうやら俺はエグザイル   中山宏史
この唐突な言い回しを目にして、今風の若者の作かと思ってしまった。何しろかの《エグザイル》を一句に詠み込んでしまうのだから半端ではない。「どうやら俺はエグザイル」と遠回しに言ってのけるのも相当のしたたかさと言わざるを得ない。おまけに、出だしは何と【時雨忌】である。この作者はすぐ後で結社新人賞を取ってしまうのもうなずける。まさに大型新人の登場であろう。ところで、この作者は何歳なのだろう?この結社に20~30歳代はおろか、40歳代ですらいなかったはずだ。昨年の結社大会に出てみて驚いた。彼は何と何と77歳で主宰ともわずか1歳違いなのだという。・・・《続く》

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【生活の必要】21世紀俳句に伝統も前衛もない/新俳句入門(1)

2016-11-16 13:57:30 | エッセー・評論
槐見ゆ振り上げし拳の真っ白き   まほろば  1979
私の最初の俳句入門は1979年だった。1985年頃まで実質5、6年は続けたと思う。結社・同人誌、総合誌の公募欄、週刊誌の特別企画(「サンデー毎日」2頁ワイド・句句凛凛&星曜秀句館)に投句し、結社1誌には同人参加した。しかし、全て中途で投げ出し、現在では当時の作句・掲載記録は一切散逸してしまっている。何故そうなったか、がまず第一に追求すべきことであろう。第二に、何と30年近くも経った2013年10月にブログで句作を再開した。大げさだが、私の人生にとって【俳句】というものが心底必要になったためであろう。1979年に最初に入門した直後に坪内稔典氏の【現代俳句】(現在の「船団」の前身)に何号か参加している。この頃、坪内氏は『過渡の詩』という評論集を出し、俳句の現代性の根拠として【片言性】【口誦性】の二概念を提起し、さらに表現主体の【俳句】との関係の不可避性を【生活の必要】という普遍なるもので一括りにしてみせた。これらの刺激的な真新しさを、1970年代を通じて浮遊状態にあった自身の在り方、生き方の指針とすることを試みた。正確に言えば、ただ直感的に指針とすべく飛びついたのだった。この本は今でも手に入るのかどうかわからない。出来れば古書店やヤフオクなどでもう一度手に入れることが可能ならぜひ読み直してみたい。・・・《続く》

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