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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【俳句の此岸】宇宙戦艦ヤマトの向かった先/私とは誰か~プレおたく世代の現在(4)

2017-02-25 10:02:46 | エッセー・評論

私が大学入学のために上京したのは1970年代前半のことである。大学入学というのは表向きのことで、本当の目的は1960年代末の学生運動の帰趨を身をもって確かめるためであった。予想通り、学園紛争はすべて消滅しており、わずかに遅れて来た世代の手による退行的な運動が燻っているのみであった。それでも就職運動直前の3学年までは授業にはほとんど出ず、自治会室や部室のある学生会館に屯して、現在の自分達は何処にいるのか、この先どうなるのかと不安に震えながらも、同じ不安を抱えた仲間たちと片寄せ合っていた。・・こう書いてしまうとそれなりの充足感もまだあり得たかのように見えるかもしれない。実際は、すべてがあまりにも不確かで何をやっても、何を言ってもただひたすらに空疎であった。4学年になっても就職活動を忌避し、通学自体することがなくなっていた。以後、昼夜が逆転し、夜な夜な古本屋→ジャズ喫茶通いが続いた。世間では、先行して美味しい果実を摘み取ってしまった70年安保(全共闘)世代の村上龍や村上春樹、高橋三千綱などの晴れやかで完結した物語群の眩しさから目を背け、ユーミンらのニュー・ミュージックの華やかさにもなじめず、すべてが中途半端な精神状態で宙を仰ぐしかなかった。そんな中でも、次々と新たな世代が現れて来た。彼らの中には、先行していた我々の確信の無さを批判しながらも、自分たちの新たな指針を自ら打ち出すことも出来なかった。彼らは、私たちの《シラケ》をやむなく共有し、さらに深めてゆく他なかったのだろう。第2次【シラケ世代】の誕生である。もう大学から完全に足が遠のいていた1970代の後半に、渋谷駅の通路であるものを目撃した。アニメ映画【宇宙戦艦ヤマト】の支援グループのアンケート机であった。そこに座っていた若者は20歳前後、高校生か大学に入ったばかりくらいだろうか、その当時、このアニメ映画が若者の間で静かだが熱気の籠もったブームが巻き起こっていた。私より大学でいえば一回りを少しオーバーした世代である。70年代後半とは、もう70年安保の残り火は完全に消滅し、【無気力】【無関心】【無責任】の三無主義がはびこっていた。・・・《続く》


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【俳句の此岸】完全なる自己喪失と再生への模索/私とは誰か~プレおたく世代の現在(3)

2017-02-22 09:58:50 | エッセー・評論

春巻を揚げぬ暗黒冬を越え   摂津幸彦  摂津は70年安保世代。それに遅れて来た私たちはここにある《暗黒》とさえ無縁な存在であった。ただ冬から春への予定調和の直中に当初から取り残された世代であった。

私は1950年代生まれであり、かのウイキペディアに【プレおたく世代】という称号を授けられた。これは実に名誉なことである。団塊の世代とも言われた70年安保世代と1980年代の前向きな空虚感を伴って生まれた最初の【新人類】世代の一部が漫画アニメやアイドルなどのサブカルチャーの担い手として最初の【おたく世代】となった人々との埋め難い断崖に宙吊りにされた世代だからだ。その人々から忌避され、自身も何ら自己主張する手段を生み出し得なかったからだ。1970年代前半に大学進学のため上京した時、わずかに1967~69年の新左翼・全共闘運動やカウンターカルチャー運動(対抗文化。ロック・ドラッグ・ヒッピー・アングラなどに象徴される反体制文化)の残り火がまだ燻っていた。自ずと授業は欠席しがちで、学生会館(部室や自治会室・食堂など)に屯する毎日が始まった。2~3年ほどで70年直後の先輩たちが卒業してゆき、私たちに継承されることもなく孤立して行った。プレおたく世代とは言わば断崖絶壁に立たされた世代と言える。70年安保世代との間の断層は、その後も大きく口を開いたまま、私たち一人々々が背負い込むことを強いられた。そうこうしているうちに、今度は後輩としてやって来た連中は、私たちと違って70年安保世代と直に接触することがなかっただけに諦めが早かった。どこか決定的に時代の【空虚感】というものと慣れ親しんでいた。1970年代の後半の到来であった。・・・《続く》

 


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【俳句の此岸】春灯しこれが日本だ私の国だ まほろば/私とは誰か~プレおたく世代の現在(2)

2017-02-21 03:17:00 | エッセー・評論

春灯しこれが日本だ私の国だ   まほろば  *五つの赤い風船『遠い世界に』より

ウイキペディア【おたく】によれば、1950年代生まれの私は【プレおたく世代】だそうだ。なるほどそうだと頷ける。大学入学のため上京したのが1970年代前半だから、まだ60年代末の学生運動やロック・フォークの残り火が燻っていた。当時は、世界も日本もよく見透すことが出来たのだ。正直言うと、私は学生運動に参加するために上京した。そして、その期待は見事に裏切られた。もはや街も人もシラケきっていたのだ。それでも、わずかに残る熱気を随所に嗅ぎ分けてはしがみついて来た。それも70年代半ばまでが限界だった。ちょうどベトナム戦争のサイゴン(現ホーチミン市)陥落が1975年でピタリと符号する。その後、つまり70年代後半からどうしたか?それこそが私の《オタク》の始まりであった。昼と夜が見事に逆転し、夜な夜な古本屋→ジャズ喫茶へと通い詰めた。俳句同人誌「豈」の創刊者の故摂津幸彦さんは70年安保世代だが、60年代の終り頃は全共闘運動(関西学院大)のかたわら、ジャズ喫茶に通ったという。その道を数年遅れで辿ったことになる。流れていたチャーリー・パーカーやジョン・コルトレーン、エリック・ドルフィーなどは時代を超えて普遍的なものだったし、マスターも常連客もチャキチャキの60・70年安保世代であった。コーヒー1杯で何時間も粘っては吉本隆明や現代詩文庫(思潮社)を読み耽っていた。住んでいたのも吉祥寺・阿佐ヶ谷・高円寺などの中央線沿線である。そんな日々も70年代後半に入るとシラケきって、何か得体の知れないものに取って代わっていった。・・・《続く》


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【俳句の此岸】否定し切れなかった現実世界への回帰/結社の大型新人(5)

2017-02-15 05:48:10 | エッセー・評論

Nさんは60年安保世代であった。かの国会を取り巻いた数十万のデモの隊列に加わっていたという。作秋の結社大会でいきなり私に近付いて来て『いつも(主宰選の)隣にいるからどんな人かと思って・・』『俺は77歳!主宰とは一つ違い』『ブントだから・・吉本隆明だよ』などとはしゃぎまくっていた。(私が)いつも隣にいたというのは、結社誌の主宰選の巻頭と次巻頭を毎号二人で分け合っていたことを意味する。他結社の元同人はこのように特別扱いされる。ただそれだけのことだが、各々の句の内容が他とはまるで違っていた。時代の体験を句(詩)にしていたということだ。だからどうというのではなく、主宰もまた60年安保世代であり、一回り次の世代(70年安保に間に合わなかった)の私ともども、主宰にとって分身のようなものだったのかもしれない。Nさんの【ヘーゲルの苦笑を背に初詣】について少し立ち入ってみたい。ヘーゲルの「精神現象学」は人間の自己意識が展開して、最終的に絶対知の段階へと至る過程を描いた。このように精神的なものに沿って体系的な思想を構築したヘーゲルに対して、マルクスはそこに物質的・現実的な基盤が欠けているとして批判しました。そうして形成されたのがマルクスの唯物論(唯物史観)です。Nさんの所属したブント(共産主義者同盟)は1955年のスターリン批判を契機に、一国主義・二段階革命論の前衛党(日本共産党)にあきたらず、日本国内で全学連(全国学生自治会連合)の奪権闘争に勝利し、主流派となった。10年後の70年安保に比べると党派(セクト)主義はまだ不徹底で、多くの学生が個々人の立場で大らかに加わっていたのだろう。Nさんもまた、大学の卒業・就職によって運動から遠ざかっていった。この句にある『ヘーゲルの苦笑』とはヘーゲル的な精神主義で加わった運動から、マルクスのヘーゲル批判よろしく物質的・現実的世界すなわち就職そしてその後の結婚といった一般庶民の生活過程に避けようもなく入っていったことへの少なからぬ悔恨を表現したものと受け取られる。しかし、Nさんの新人賞受賞作中の白眉と言える【時雨忌やどうやら俺もエグザイル】において表出された、俳句(詩)に何ごとかを託そうとする心情はただそれだけのことでは説明出来ないものがある。・・・《続く》

 

 

 


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【俳句の此岸】プレおたく世代わたしもか春浅し まほろば/私とは誰か~プレおたく世代の現在(1)

2017-02-14 05:28:22 | エッセー・評論

基本的にSFファンで、劇画の登場により漫画は大人も読むものとして認められつつあったが、「アニメは子どものもの」という風潮の中で育った。「しらけ世代」と言われた世代にあって、成人後も趣味的に漫画を描いたり、漫画・アニメ・SFを特に好み玄人はだしの評論を行う一群が現れ、彼らはマニアと呼ばれた。彼らが開催したSF大会や日本漫画大会などは、その後の同人誌即売会に繋がる文化の先駆けとなった。 ウイキペディア『おたく』〈プレおたく世代ー1950年代生まれ〉より

かろうじて私もオタクの一員【プレおたく世代】に加えてもらえそうだ。60歳になる直前に俳句に再入門(以後3年4ヶ月)したが、最初の入門は20歳代半ば過ぎの頃(6年ほど)であった。現代のオタクたちがアニメや漫画、ゲームに熱中する替りに、私は俳句という年寄り臭いものにあえて飛び込んだと言えなくもない。その酔狂さがいかにもマニアックであった。しかし、元々70年安保世代【団塊の世代】の追っかけ(これもオタク臭がプンプン)だったこともあり、吉本隆明や新左翼専門誌「情況」を愛読していた。70年代の後半に入ると政治の季節は完全に去り、「現代思想」誌や村上龍・春樹などの小説に熱中した。さらに忘れてはならないのが、キリギリス世代=しらけ世代の最大のバックボーンとなっていたニューロックやジャズ(古典からフリー、70年代ニューエイジまで)に70年代の最後まで耽溺していたのも私たちプレおたく世代(1950年代生まれ)の特長である。その結果、正規の就職も出来ず、元祖フリーター・ニートや引きこもり(ピーターパン症候群~モラトリウムの世代)を自認せざるを得なかった。・・・《続く》


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