八王子アローンの名称は極めて象徴的であった。1960年代末の若者文化のキャッチフレーズは【連帯をもとめて孤立を恐れず】である。かの東大全共闘の残した名セリフである。当時の各大学のキャンパス内の至る所に書きなぐられていたという。69年1月の安田講堂陥落以来、同年中に全国の全共闘壊滅した。翌70年に、今度は全国の高校で反逆の嵐が吹き荒れた。全てはここまでであった。70年代後半ともなると、取り残された私たちから一切のキャッチフレーズは奪われ、文字通りの孤絶【アローン】こそが最も相応しい情況が訪れていた。1976年の秋の【アローン】は不発に終った。出演予定だった前衛ジャズ・ドラマーのミルフォード・グレイブスが何とドタキャンしたのである。その日、会場の【アローン】には数百人の入りきれないほどの聴衆が集っていた。道路まで人が溢れていて、中からは何もジャズ演奏らしい音は聴こえて来なかった。店のスタッフの言うには、突然出演者サイドからキャンセルの申し出があり、我々に報せる手段は無かったという。とりあえず、待機していた所謂前座の日本人グループ【集団疎開】の演奏が始まった。私には、彼らの演奏を耳にするのは初めてではなかった。それから数ヶ月前の、新宿郊外の甲州街道沿いにあったライブ・スポット【騒(がや)】でのことであった。・・・《続く》
1970年代に入ると学生運動やカウンター・カルチャーは一気に下火になった。70年安保を主導した新左翼(3派系全学連)や大学解体を叫んだ急進的な学生運動(全共闘)など閉鎖的なセクト(党派)争いに明け暮れ、60年代末のような拡がりは無くなった。陰惨な内ゲバや国内外のテロがマスコミを賑わしていた。若者文化も1969年のウッドストックを頂点に、ロック&ヒッピー・ムーブメントは消え去った。アメリカン・ニュー・シネマの『イージーライダー』『バニシング・ポイント』『明日に向かって撃て』などに象徴されるように、既存の体制の大きな壁にアッサリと阻まれた。にもかかわらず70年代に入って新たに盛り上がったものに【フリージャズ】がある。ジャズの世界では、60年代末にロックの影響をもろに受け、文字通り「クロスオーバー」(越境、超ジャンル)という先鋭な形態が生まれ、後に「フュージョン」に結実した。また、チック・コリア、キース・ジャレットなどのエスニックや逆にヨーロピアン・トラディショナルを取り入れ、ニュー・エイジやワールド・ミュージックにつながる新たな流れが生まれた。しかし、それらとは全く別にジャズの演奏フォーム(ブルーノートなど)そのものを壊し、人間の内面の最深部に降りて行くような方向性が生まれつつあった。60年代の継承である。1976年の秋頃だったか、東京の1970年代の若者文化の発信地となっていた中央線(JR東京~八王子・高尾)沿線の西の行き止まりの八王子駅からほど近い繁華街の外れにあったのが、希少なフリー(前衛)ジャズ専門のLIVE SPOT八王子アローンであった。・・・《続く》
音楽が途切れ酒呑童子の夢から醒め まほろば *この句は大井恒行さんのブログ『日々是好日』で取り上げられました。
1970年代は前半と後半とではまるで違っていた。私は前半に大学入学のために上京したが、学生運動・ロックジャズ・アングラ演劇・・と60年代末の若者文化はソックリそのまま存在した。ただ、それらを包み込む時代の空気が根本的に変容していた。自由とはもはや当たり前のことになっていたし、同時に【いま・ここ】の自分という存在がすでに何ら疑いを挟む余地の無いものに成り下がっていた。前世代のカウンターカルチャー運動や自己変革の《熱気》は一掃されていた。【いま・ここ】の自分(実存)を揺るがし、何か別のものに更新してゆく期待感は周囲の空気を乱す【時代遅れ】のモノとして排除されつつあった。そんな中で私もまた旧時代の【自我意識】を、他でもない私自身の手で始末することを余儀なくされた。大学への登校(通学)拒否である。そこにある人もモノも未来(就職)も、すでに私の興味の対象では無くなっていた。そうこうするうちに1976年の秋であったか、中央線の行き止まりにある八王子にアローン(孤絶)というフリージャズのライブ・スポットでミルフォード・グレイブスという最先鋭のドラマーの来日コンサートが行われることになった。当時、私は既存の若者文化の中心であった中央線周辺からいったん離れ、新宿にほど近い初台という地の『騒(がや)』というスポットに毎夜通い詰めていた。フリージャズとは何だったのか?・・・《続く》
俳諧自由ただ空っぽの春の空 まほろば
1970年代の後半に入ると、私の足は大学からは遠のいていた。70年安保世代とその直後の人々がキャンパスから一掃されたのである。就職や中退など理由は様々であった。もう一つの理由は、70年安保と完全に切れた世代の登場である。彼らを指して第二次【シラケ世代】と言う他無い。私がキャンパスから離れ、就職することもなく何をしていたかと言うと、完全なる昼夜逆転生活であった。深夜の閉店間際の古本屋→ジャズ喫茶の繰り返しに徹すること以外に選択の余地はなかった。ある時、大学の学部の2年先輩(年齢は1歳違い)のAさんが突然吉祥寺のアパートを訪れて来た。1975年の秋頃だったろうか、翌日がかの成田空港反対闘争の決戦なのだという。それで私も同行することを誘って来たのだ。私は即座に拒絶した。彼も私同様、遅れて来た世代であり、70年安保はすでに頓挫していたことを誰よりも知っていたからだ。すでに終ったものを後追いする気持ちはとうに失せていた。私の興味は70年代後半の新たな展開に向いていた。その一つは【宇宙戦艦ヤマト】という突拍子も無い《すでに終ったもの》の暗喩であり、フリージャズという《空を掴むような行為》であった。・・・《続く》
宇宙戦艦ヤマト乗員は誰なのか まほろば
1970年代後半に私たち第一次【シラケ世代】に替って登場したのが、その名の通り第2次【シラケ世代】であった。年齢にして私より3~5歳下、1950年代後半生まれに収まる。ハッキリ言って、私たちは彼らに何も継承しなかった。と言うより、継承すべきものが何もなかったのだ。私たちは、70年安保世代から何も継承しなかったのと同じように。先行する世代の挫折をただひたすら封印し、70年代の後半にかけて加速した【空虚感】の渦中にあって逼塞し続けることを余儀なくなれた。それでは、彼らの目には我々の《沈黙》はどのように映っていたのだろうか?・・・《続く》