花キャベツばかりの夕餉隣家が火事 まほろば
ヤフーオークションで大阪の出品者から坪内稔典著『過渡の詩』(牧神社1978)を落札した。今日中には届くようだ。出品者が坪内氏と同じ大阪在住というのはさすがである。私は東京在住だが、神田の古書店にもあるかどうかわからない。もう40年近い時間が過ぎている。坪位内氏とは面識は無いが、1980年頃、氏の出していた『現代俳句』に何度か掲載していただいた。私の俳句への入門は1979年のことで、ほぼ同時に『現代俳句』と遭遇したことになる。その後の同氏や俳句との関わりは置いておいて、この『過渡の詩』について、明日手にする前に少し書いておく。私は1970年代前半の大学入学のための上京以来、現代詩には並々ならぬ関心を抱いていた。現代詩手帖や現代詩文庫を読み漁っていた。私の所属学部は経済学部であったが、当時、人間や時代の自己表白としての文学と生きるための共同性を追及する社会科学の間に境界は無かった。70年代の後半に入り、60年代末の政治やカウンターカルチャーの残り火が消失してしまったことを見届けてからというもの、大学から足が遠のいていった。それ以来、昼夜逆転、夜な夜なジャズ喫茶通いの果てに、一念発起して最先端の若者文化に裏方として復帰すべく行動を開始した。それもわずか1年ほどで頓挫し、以後どうするかを決めあぐねている時に、ある書店で出遭ったのが坪内氏の【現代俳句】であった。その中には、既存の《俳句》のイメージとは全く異なる所謂【前衛俳句】の新しいかたちであった。つまり、私が出遭った《俳句》というのは、受験国語の中の芭蕉や子規・虚子ではなく、最初から坪内氏らのポスト戦後(前衛)俳句のかたちを取った剝き出しの自己表白であった。もう一つ注目されることは、坪内氏らは等しく団塊の世代で、70年安保の敗者であったことである。私は、70年安保に間に合わなかった世代である。私の70年代とは、彼らの幻影を追い求めて、ついにどこにも見出せなかった【空白】の10年であった。私は、その70年代をまるごと喪失したその時に、70年安保後を生き延びていた彼らの現実の姿と、初めてあいまみえることになったのだ。何という皮肉であろうか。両者の邂逅そのものが俳句の諧謔性そのものの体現とさえ思えるほどであった。・・・《続く》
1970年代の特徴を一つ挙げるとすれば、その空虚さに尽きる。何もかもが手応えが無く、何かにつけ将来性が乏しかった。先行する世代からの継承は無きに等しく、後続する世代へ託すものも皆無であった。私たち70年代前半から半ばにかけての世代は、ひたすら内に籠もる他なかった。そんな中で、ジャズ喫茶ではロックとの【クロスオーバー】やヒッピー・ムーブメントに続く【ニューエイジ】の実存するものとしての【自然の普遍化】が徐々に主流を占めつつあった。チック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエバー」や「ウェザーリポート」、キース・ジャレット、ハービー・ハンコックなどである。それらに加えて静かだが人知れず、黒々とした熱気を発していたのが【フリージャズ】であった。・・1976年の秋も深まった頃、東京の中央線の行き止まりにあるジャズ・スポット【八王子アローン】で、米国のフリージャズ・ドラマー【ミルフォード・グレーブス】のパフォーマンスは頓挫した。聴衆は自然発生的に会場側と団交し、時間無制限の討論への移行を勝ち取った。これが《勝利》と言えるかどうか、はなはだ疑問である。ミルフォード・グレイブスという《場》は実現することは無かったし、私たちは1970年代という時の流れに呑み込まれてしまったのだから。私たちは、1976年のこの時どこに追い込まれ、どこに向かって脱出しようとしていたのだろうか?・・・《続く》
時雨忌や老いさらばえて死ぬるだけ まほろば
新宿からほど近いフリージャズ専門のライブ・スポット【騒(がや)】への出入りは1年ほどで終ったように記憶している。その理由はここでは書かないが、最大のプラスのエポックはアルトサックス奏者の阿部薫さんとの邂逅である。彼の音楽表現はもはやジャズにまつわる固定観念をはるかに超えていた。同時に、聴衆の一人としての私自身もまたジャズの流れる空間という認識は瞬時に消滅していた。フリージャズにおける《フリー》とは、何らかの手段で《自己》を表現するためのテリトリーを最初から逸脱していた。1970年代のあっけない何処までもシラケた空間を極彩色に染めて、遺恨を晴らそうということに他ならなかった。決して70年安保やカウンターカルチャーの延長戦をやろうというような建設的なものではなかった。八王子アローンのメインイベント(ミルフォード・グレイブス)は頓挫したが、前座役の【集団疎開】という日本人グループは見事にその憂さを晴らした。・・・《続く》
兵に告ぐ2017年の兵に告ぐ まほろば
私は1976年になると、もう大学にはほとんど足が向かわなかった。当時の若者文化の中心だった中央線沿線から逃げ出すように引っ越した。そこは新宿からほど近い幡ヶ谷という地で、すぐ隣駅が初台であった。新宿西口からさらに西に伸びる甲州街道沿いを歩いていると、あるビルの地下にその店はあった。フリージャズ専門のライブスポット【騒(がや)】である。70年代後半になっても、新宿やそこから延びる中央線沿線の各駅に散在したジャズ喫茶はまだまだ眼強く残っていた。70年安保世代で就職からあぶれた者やそれに続く私たちには、もう他に行く所は残されていなかった。案の定、男女2名のスタッフは共に初期の団塊の世代であった。フリージャズとは、60年代の通常のジャズ(ハードバップ)や70年代前半のクロスオーバー、ニューエイジに飽き足らない、前衛的で破壊的なジャズのことで、これに興味を示すこと自体、体制的なものへの反逆を意味した。政治や社会での闘いには敗れたが、本当の闘いの場は個々の精神の中にこそ残されていたのだ。・・・《続く》