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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【俳句の此岸】追い討ちをかけてくる巨大な空虚/私とは誰か~プレおたく世代の現在(17)

2017-03-25 05:39:50 | エッセー・評論

涅槃会の巨大な空虚頓挫せり   まほろば

1980年を前にして、私の新時代への参入は頓挫した。70年代後半の変化は凄まじく、70年前後の余波を一掃しようと躍起になっているかのように見えるほどであった。あの時代は一時の夢であり、一日も早くそれを払拭しないと先へ進めないといった風潮が世界を蔽い尽していた。70年代後半のとば口にあって、突然巻き起こった【パンク・ニューウェイブ】旋風は60年代末の世界的ムーブメントの残滓を指の先ほども受け入れようとしなかった。私自身に対しても、まだやってるの、暗い、勝てなかったじゃない・・などと嘲笑の的になるだけだった。決して私自身がやったわけでもないのにである。私たちはやりたくても、もうどこにもやる場所は無かった。それを説明してもおなじことだった。もう何もかもが遅すぎたのだ。追い討ちを駆けるように、そんな私には、わずか5歳ほどの違いしかない彼らの目指すものが理解出来なかった。と言うより、彼らには目標というものは最初から何も無く、ただ身近に迫りつつあった得体の知れない《空虚》が許せなかったのに違いない。そして、その等身大の《空虚》は次第に巨大化し、個々人にはどうにも手の施しようのないものに変貌し、彼らもまたその渦中に呑み込まれて行った。彼らは、現在50歳代後半になっているはずである。その後、彼らがどこで何をしていたのか全くわからない。もちろん、同世代の我々ポスト70年安保世代【キリギリス】【モラトリアム】たちも雲散霧消していった。・・・《続く》


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【俳句の此岸】巨大な空虚の中で発せられた真実の言葉/私とは誰か~プレおたく世代の現在(16)

2017-03-23 04:04:57 | エッセー・評論

1970年代は間もなく尽きようとしていた。私が企画したイベントで【パンク・ニューウェイブ】の2バンドが予定の演奏時間を大幅にオーバーしたため、メインの大物アーチストの文字通り出る幕が無くなり、このイベントは頓挫してしまった。彼らは私とはわずか5、6歳の違いしかなかった。しかし、私たち世代が投げ出した70年安保の挫折の総括と継承を見事にやってのけることが出来た。彼らの敵はコマーシャリズム(メジャー文化)への拒否であり、体制そのものへの反逆であった。その当時、政治への参加は完膚無きまでに喪われており、それを投げやりな演奏形態だけでなく、ファッションや言動など・・アンチ風俗の徹底である意味より過激化していた。70年安保当時のカウンターカルチャーの基調は【ラブ&ピース】であり、ドラッグによる【拡張意識】であり、どこまでも内省的であった。一方、まだ10年も経たないうちに内省は消失し、音も歌声もファッションも何もかもが外部に向かっていた。私が、70年代の前半の上京後に出遭った先行する人々は、皆一様に言葉の過激さに反して温和で優しく、親愛に満ちていた。互いの外部(他者)にこそ共通の敵が存在し、その敵と闘うためには互いに【被害者】である必要があったし、仲間意識を強める必要があったからである。ところが、わずか数年遅れてこの世界に割り込んで来た【パンク・ニューウェイブ】の年少の彼らは、己れの内部に敵というものを見ようとせず、ひたすら外部の目に見える他者を敵視した。70年安保の完膚無き敗北後に現れた巨大な《空虚》の中で、判別の付かない《全て》が敵であるかのように、見境無く言葉を発し、音楽をぶつけた。時の彼方にしかない、私たちの【70年安保】や【カウンターカルチャー】に対しても言葉の端々で揶揄し、吐き捨て、私たちが何を言ってもすでに負け犬の遠吠えでしかなかった。『お前のこれからの夢は買い物の計画だけだ』(セックス・ピストルズ)とは時代の真実の言葉だったのだ。・・・《続く》


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【俳句の此岸】彼らは新たな《現在》と闘っていた!/私とは誰か~プレおたく世代の現在(15)

2017-03-21 03:48:10 | エッセー・評論

俺は酔っ払ってぶっ壊してやるのさ 春空   まほろば  

70年代の最後の1979年に、大学を卒業(中退。後に通信制に編入)するに当たって、裏学園祭という位置づけで、音楽イベントを開いた。それまでに方々で知り合った超ジャンルのミュージシャンたちを一堂に会して、何か新しいものをという試みであった。結局のところ大失敗だったが、その最大の理由が【統一テーマ】の不在と、当時、ロンドンから東京にも飛び火していた【パンク・ニューウェイブ】の2バンドを含めたからであった。まず、彼らは与えられた演奏時間を守らなかった。2バンド間の対立とメインのメジャー系バンドへの当て付けである。彼らは、前年にメジャーレーベルからオムニバス盤を出してはいたが、依然アンチ・メジャーを旗印としていた。驚くべきことに、1979年の《現在》にあって、彼らは何者かと闘っていたのだ。彼らは、私たち70年安保直後の世代に比べてわずか4、5年ほどしか歳の差はなく、大学でいえば一回り(入学と卒業)しか違わなかったはずなのにである。思えば、私たちは前の世代を踏襲して、資本主義と帝国主義に象徴される非人間性の満ち溢れた大きな世界と闘おうとして、敵を見失っていた。なのに、わずか数年後の彼らは確かに等身大の何かと闘おうとしていた。彼らはいったい何と闘っていたのか?彼らは何者だったのか?空虚という語とは別に【空無】という言葉がある。私たちにとっては、1979年も70年代であり、それに先立つ60年代末のあの巨大な闘いを背にしていたのではなかったのか?答えはノーであった。わずか5年ほどの断絶の後、彼らは私たちとは全く別の《空虚》と対面していたのだ。何ものも引き擦ることなく、本当の《いま・ここ》しかあり得ない【空無】としての《現在》の直中に実在していたのである。・・・《続く》

「セックスピストルズ」の画像検索結果

THE SEX PISTOLS 『ANARCHY IN UK』  1976

https://www.youtube.com/watch?v=ICXdQR1VVhw&feature=player_embedded#t=61


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【俳句の此岸】ブラウン管で見たことのある人々/私とは誰か~プレおたく世代の現在(14)

2017-03-17 05:44:38 | エッセー・評論

マニアックとヒューマン昭和の日となれり   まほろば

70年代の終わりに近付いた1978年の秋頃に、私は吉祥寺の井の頭公園の野外ステージで歌う若者の集団に遭遇した。後に、ニッポン放送の深夜番組の主題歌を担当することになるKKとその仲間たちであった。この時の顔ぶれの中には、当時のサブカルチャーを盛んに紹介していた「平凡パンチ」誌に全頁コラムで紹介されたSK、ヒゲタ醤油の現社長のHなど面白いメンバーが揃っていた。このKKの人脈は凄く、11PMの台本や狩人の「あずさ2号」の作詞で知られた、当時のナンバー!放送作家のO氏や演歌の作詞・作曲家N 氏など、多くの有名芸能人と接する機会が出来た。現在のような、ITネット社会と違って、まだアナログの人脈つまり人と人のつながり(縁)で社会は出来ており、私のような下宿やジャズ喫茶で詩集ばかり読んでいた者も、人を見る眼の秀でた先行者たちに好ましいものとして映ったようだ。この頃はまだ【おたく】という概念は生まれておらず、玄人ばりのマニアックやヒューマン(無償の人間愛)が主流を占めていた。世の中は今より遥かに生き易かったのだ。このKKの人脈で、テレビ(広告)制作者と有名お笑い系プロ所属の放送作家にめぐり会った。KKのライブスポット出演などに付いて回りながら、芸能界の隅っこでブラウン管(当時、テレビ文化を指してこう言った)でよく見かける人々の間を駆け巡る日々が続いた。・・・《続く》


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【俳句の此岸】誰もが見上げた70年代の空虚/私とは誰か~プレおたく世代の現在(13)

2017-03-15 02:45:49 | エッセー・評論

1976年の八王子アローンは出演予定のミルフォード・グレーブスの突如の出演中止で徹夜討論の場と化していた。もう41年もの時が過ぎ去り、記憶にはその時のいくつかの場面と人の顔が残っているだけだ。おそらく、こういうことだったように思う。ミルフォード・グレイブスの演奏は彼一人の独占物ではなく、聴衆一人々々に共有されるべきものであった。それが、彼一人の独断で消滅してしまったのはどうにも理不尽であるということである。彼の演奏の不在を我々はどのように受け止めればよいのか・・というどうにも出口の無い意味不明の【空虚】の中に誰もが放り出されていた。ただ出演予定者に対する怒りはそれほどなかったように思う。たとえ不成立に終ったにしても、そこに足を運んだ自分の【現在】の在り方にさしたる変化はなく、むしろ【不成立】という出来事を共有するという突発的な状況を楽しんでさえいたのかもしれない。終電時刻の0時過ぎが迫ると帰る者が出始め、終電が過ぎると、店のスタッフがクルマで送るという呼びかけもなされた。それでも、大半が始発の4時半までフロアに座り込んだり、店の前の路上に立ち竦んでいたりしていた。そこにいた誰もが1970年代後半のとば口の、何もかもが宙に浮いた行き先不明の時代の空間にあって孤絶しており、このようなことが起こってもそれほどの衝撃は無かったように思う。謂わば、この手のことは気分として日常にありふれたことだったのかもしれない。いずれにしても、1970年代の国内におけるフリージャズ・シーンの一大イヴェントは水泡に帰した。この年から3年間は相変わらずの昼夜逆転生活が続き、日夜、現代詩を読んだりフリー・ジャズのイベントを企画したり、ジャズスポットで友部正人さんのライブを企画したり・・の日々が続いていた。このフリージャズのアーチストと出遭ったのは、あの日比谷野音の小スペースでの彼らの定期ライブでのことで、聴衆は何と私一人であった。ちなみに、このアーチストはこの数年前にジャズ雑誌で16歳の天才ドラマーと騒がれていた。この時代は、誰もが単独者として共通の【空虚】と向き合っていたのだ。友部正人さんの場合も、会場側もジャズ以外のアーチストは初めてで大いに乗り気だったのを覚えている。友部さんとは中央線の吉祥寺の縁で何度か会っていたが、彼との最初の出遭いも高円寺の小ホールでのライブであった。この時の聴衆も私一人だったように記憶している。・・・《続く》


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