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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

ぎりぎりの傘のかたち/北大路翼を読む(1)

2017-04-14 22:32:47 | エッセー・評論

ぎりぎりの傘のかたちや折れに折れ   北大路翼   話題のベストセラー句集『天使の涎』より

ビニール傘というものは昔は無かった。発売されたのは1990年代に入ってからだと思う。通常、急な雨などでコンビニで購入し、止めば帰宅以前に捨ててしまう。台風や突風などの時は、まるで役に立たず、すぐにバラバラになり放置される。ぎりぎりの傘のかたち、とはもはや《傘》の役割を喪くしたあとのことである。よく見ると《》だったとわかるが、もはや《傘》としての存在感は喪われている。下五の『折れに折れ』と畳み掛ける作者の目線には容赦が無く、まるで《》自身の責任であるかのように言い放つ。この【ぎりぎりの傘のかたち】とは、作者の現在の姿でもある。路傍の《》から目を転じて、作者の自身の来歴と自己を映し出す鏡としての【俳句形式】を見る目にも容赦は無い。作者もまた、まさにギリギリの【大きな喪失】を経て来たに違いない。・・・《続く》
 
「北大路翼 俳句」の画像検索結果
 
 
ALBERT AYLER 『LOVE CRY

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【俳句の此岸】俳句とは《ゼロからの出発》(坪内稔典)を意味した/私とは誰か~プレおたく世代の現在(20)

2017-04-02 21:32:10 | エッセー・評論

70年代の終った1980年にあっても、まだ私は20歳代であった。ところがその20歳代の前半において、すでに「終った世代」であった。世間からは【キリギリス世代】【モラトリアム世代】などと呼ばれ、どこにも居場所は無かった。後ろを見ても断崖絶壁、前を見ても無気力・無関心・無責任の【三無主義】の新世代から煙たがれ、おのずと自分だけの狭い空間に引き籠らざるを得なかった。1980年代の始まりは、空虚感を通り越した《空無》の真っ只中にあった。そんな中で角川春樹氏の俳句結社「河」の新人会からの誘いは嬉しいことだった。句会は月に一度、都心の広々とした会場で行われ、春樹氏を挟んで吉田鴻司・井桁白陶・松本旭・増成栗人・佐川広治・・とそうそうたるメンバーが前に並び、後に結社主宰になった者も含めて「河」の俊英候補たちが犇めき合っていた。それからしばらく経って、書店で「現代俳句」という瀟洒な雑誌を見かけた。大阪の坪内稔典氏(現船団代表・京都教育大名誉教授)の個人発行する俳句総合誌であった。坪内氏は元立命館大全共闘の活動家で、年齢からして(文学部)大学院生として参加したようだ。俳句は在学中から、伊丹三樹彦の「青玄」などで始め、東京の沢好摩氏らと全国学生俳句連盟を組織し、文化運動として全共闘でも発言したのだろう。この「現代俳句」誌に早速投稿してみると、最初から佳作に取り上げられ、次のような印象的な評価を得ることが出来た。【・・・これらの句群は既成の俳句の概念に上手く収まっている。しかし、俳句とはこの後どう書くかのことを指す】と。まさに至言であった。この時、私はまだ20歳代であったが、大きな挫折と時代の変化を目の当たりにして、内心【この後どう在るべきか】の問いの渦中にいた。坪内氏の【どう書くか】は、この【どう在るべきか】と一致した。・・・《続く》

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【俳句の此岸】70年代のアンニュイ感を断ち切ったもの/私とは誰か~プレおたく世代の現在(19)

2017-03-31 04:15:55 | エッセー・評論

私の1979年は終った。都心のマンションから再び中央線沿線の中心の吉祥寺に舞い戻っていた。長兄がこのエリアの大学に通っていた関係で、70年代を通じて兄のアパートを中心に何度か転居を繰り返していたが、この時の帰還場所は市内でも北端のこれまでで最も外れにあった。79年いっぱいで音楽の世界からキッパリと離れ、1980年の直中にいた。その前に、1979年のいつ頃だったか、角川春樹さんの【河新人会】の月例句会に参加した。60年代の終りのラジオの深夜放送ブームをリードした、ニッポン放送【オールナイトニッポン】の中に【角川春樹の俳句教室】を発見し、生まれて初めて俳句を作った。その時の入選が縁で俳句結社「河」に入会した。その連絡先となっていた角川書店の総務部に電話してみると、角川春樹事務所を紹介され、早速入会手続きのため訪問した。当時、ホテルニューオオタニの前のオフィスビル(地階にクラシックの紀尾井ホール)の中にあり、映画製作の専門オフィスとなっていた。その際、応対していただいたのが俳人の吉田鴻司さんであった。これが私の正真正銘の俳句との邂逅であった。1979年という年の一部は、確実に俳句で占められていた。俳句との初発の関わりに入る前に、私の1970年代の終焉についてもう一度振り返ってみる。私はこの時代の最後の年に何かを始めてゆくとば口に立っていた。にもかかわらず、あと一歩を踏み出せず、全てがご破算に帰してしまったのは、この時代の【空虚】との親密さを手放せなかったためとも言える。70年安保とカウンターカルチャーという巨大な時代の勃興と消滅の渦中に身を置き、結局、人間は何も生み出すことが出来なかったのだというアンニュイ感に浸り切ることはある種の快感でもあったのかもしれない。しかし、1980年代という時代の恐ろしいほどの空白感は、70年代の前時代の消滅という【空虚】をアッサリと乗り越えていた。それは、後にも先にも文字通り何も無い【空無】とでも言うしかないようなものだった。・・・《続く》 

  空也忌の亡者が人に席ゆずる     まほろば  【塚本邦雄選】 

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【形式と思想】酷烈なる精神は俳句批判を回避した/坪内稔典を読む(1)

2017-03-30 11:06:41 | エッセー・評論

西東三鬼は、昭和23年一月の「天狼」創刊号【現代俳句の大道であり、又それを向上推進せしめる力ー三鬼】に評論『酷烈なる精神』を書いた。

「今日の俳句は如何にあるべきか」という問題の答えは、俳句というものに対する俳人の態度にある。俳句否定論に返答するためには、従来の【甘い態度】を反省しなければならない。一は詩型への甘え、二は技術への甘え、三は季節への甘え、四は分野への甘えである。俳句は、もともと、酷烈・冷厳な現実表現の場であって、甘えを拒否するものである。冷徹に酷烈に現実に切り込むのが俳句に志す者の宿命である。そして、辛うじて現実の中枢に触れ表現得た時、それが初めて慰楽となるのである。俳句精神の酷烈とは、万象に立ち向かう作家の態度として真実に観入しなければ止まずとする、執拗に食い下がって放さない精神である。

おおむね以上のことを三鬼は述べたが、俳句はなぜ酷烈・冷厳な現実表現の場なのか、あるいはまた、現実に触れるとはどういうことか、こういう肝心の点が曖昧であることがわかる。三鬼の言う甘えを拒否することはどういうことかを丁寧にみてみる。・・・《続く》

 イメージ 1

 

野路由紀子 『アカシアの雨がやむとき』 カバー 1970年代版

https://www.youtube.com/watch?v=aqp0yw_zuSs&feature=player_embedded#t=4


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【俳句の此岸】1980年という厚い壁をどう乗り越えたか/私とは誰か~プレおたく世代の現在(18)

2017-03-27 06:50:22 | エッセー・評論

凍て戻る1980年の厚い壁   まほろば

1960年代の末に全世界に吹き荒れた新左翼(反帝国主義・反スターリン主義)とベトナム反戦運動、そして「Vサイン」として現在も残っている【ラブ&ピ-ス】のカウンター・カルチャー運動への憧れは青春の全てであった。中学から高校にかけて地方に身を置きながら、一日も早く上京し、これらの運動に飛び込むことを望み、悶々とした日々を送っていた。そして、念願かなって上京すると、そこには無惨な敗北の残滓が横たわっていた。ニューエイジなどの空々しさに耐えながら、70年安保の残り火に震えながら手を翳し続けるのと同時に、時代の静かだがとてつもなく巨大な流れに耳をそばだてていた。私は真っ二つに引き裂かれていた。1970年代とは何なのかなどと考える余裕はまるで無く、いつしか70年代半ばに突入し、後半の文字通り何も無いただ巨大化した【空虚】の渦中で、突然、海の向こうからやって来た【パンク・ニューウェイブ】という闘う標的を喪った、ただひたすら毒々しいだけの《徒花》が視界に入って来た。しかし、それはわずか5年ほどしか離れていない新世代によって、少数だが計り知れない深度をもって担われていた。私はまさか今になってと躊躇しながら一歩踏み込もうと試みたが、アッサリと撥ね返された。彼らは《新世代》ではなく、前時代へのアンチテーゼとしての【空虚】そのものだったのだ。1979年のいつだったか、東京青山のベルコモンズというファッションビルの一角で日本のニューウェイブの女性ボーカルを連れた坂本龍一さんを階段の踊り場で見かけたことがある。その頃、坂本さんはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を率いて世界を席巻していた。坂本さん以下のメンバーは全員70年安保世代だが、運動の破綻後は安倍薫とユニットを組んで【フリージャズ】に取り組んでいたようだが、この音楽はその後の【パンク・ニューウェイブ】にもろに影響を受けていた。この時の女性アーチストは小柄でひ弱な印象で、すぐにミュージック・シーンから消え去ったように記憶している。私が出遭ったパンクの若者たちも80年代に入ってどのような活動を続けたか全く聞かない。海外では毒々しい《パンク》の文字を削ぎ落とした【ニューウェイブ】として、80年代前半に実に多様な音楽表現として続いて行った。それでは、私自身のその後はどうなったのだろうか。・・・《続く》

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