限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第269回目)『手引きなしで、マインドフルネスに到達しよう』

2023-02-19 15:13:39 | 日記
先日、ある会合で「マインドフルネス」という言葉を教えられた。早速Web検索するとマインドフルネスとは「『今、この瞬間』を大切にする生き方」であるとか、「意図をもって、今の瞬間に、評価や判断を手放して、注意を払うことから、わき上がる気づきの状態(アウェアネス)」と定義されていることを知った。また、関連する単語としては「 EQ(Emotional Quotient)」や「瞑想」という語句が挙がることも知った。

EQに関しては、以前にEQをビジネスにしているベンチャー会社の顧問をしていたので、馴染みのある言葉であるだけでなく、その会社の要請でアメリカに出張して、ジョン・メイヤー自身にも会ってきた。非常に知的ではあったが、アメリカ人には珍しく腰の低い人であり、人格的にも人を惹き付ける魅力のある人だと感じた。その翌年には、同社が日本で EQセミナーを開催した際には、 EQの概念の創立者のもう一人の大御所である、ピーター・サロベイにもお目にかかったが、彼とはじっくり話す機会がなかったので、どういう人かは分からない。いずれにしろ、彼らの理論を一般向けに紹介したダニエル・ゴールマンのお陰でEQの概念とその重要性は世間に定着した。



さて、冒頭で述べたEQとも関連するマインドフルネスはグーグル本社が社内教育に取り入れ、 SIY(Search Inside Yourself)という名の活動を行って大いに成果を挙げたらしい。その本『サーチ・インサイド・ユアセルフ』(英治出版)を購入して読んだ。私なりに内容をまとめると、マインドフルネスを実践すると次のような効果があるようだ。

 1.EQを高めると個人の能力が向上する。
 2.毎日、わずかの時間でも瞑想をすると個人の能力が向上する。
 3.世間の人のEQが高まると、世界平和につながる。

結局、私なりにマインドフルネスやSIYをまとめると次のようになる。
「瞑想することで、感受性を高め、怒り・嫌悪感や執着心を持たないことで、情動を自分の思うままにコントロールすることができる」

もし私のこの読み替えが正しいとすると、「マインドフルネス」は何も新しいことを言っているのではなく、かつての東西の賢人の知恵そのものと全く変わる所がない。東洋でいえば、仏教しかり、老荘しかりだ。西洋でいえば、ストア派、エピクロス派しかりだ。私の好きな荘子の『外篇』《山木篇》には次の言葉がある。
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(要旨)川を船で渡っているときに、無人の船がぶつかってきそうになっても誰も怒らないが、もし人が乗っていれば、「危ないじゃないか!」と声を荒げて注意するだろう。それでもまだこちらに来るようであれば、怒り心頭に達する。この差は、自分の心が無心かどうかという一点だ。
(原文)方舟而済於河、有虚船来触舟、雖有惼心之人不怒;有一人在其上、則呼張歙之;一呼而不聞、再呼而不聞、於是三呼邪、則必以悪声随之。向也不怒而今也怒、向也虚而今也実。人能虚己以游世、其孰能害之!
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この話は、同じことでも、人が居ればそこに怒りをぶつけるが、物だと怒りを感じない。これを考えれば怒りを鎮めるには、人が原因であるとみなさないことだと考えよということであろう。

このように心の状態を分析して説明されると、理屈では分かる。そして、その効果はその手順を覚えている限り発揮できる。しかし、問題はそのような解析的な事柄というのは人は時とともに忘れてしまうことだ。例えば、中学や高校でならった数学の公式を思い出してみよう。思い出せないだろう。しかし、小学校でならった唱歌や、中学校や高校の校歌なら何時までも思い出せるであろう。これは、体育の選手が、何度も訓練して体で覚えているようなものだ。リーダーシップ論にしろ、アンガーコントロールにしろ、とっさの時に体が反応するまでにならないと効果はでない。体が即座に対応できるというのは、解析に優れている左脳の論理性が機能するのではなく、右脳の情緒性が機能することである。このようなことから、マインドフルネスの本で言及されているような心の鎮め方は実際のビジネス状況での応用の持続性は乏しいと考えられる。私は、右脳に直接働きかけるのは論理ではなくエピソードだと考える。つまり、リーダーシップ教育や、アンガーコントロールが実際に効果を発揮するのは、瞬時にエピソード記憶が蘇る時だということだ。

さて話は変わるが、アメリカの教育システムでは、誰もができるように、最初はバカ丁寧に教えてくれる。跳び箱で喩えると、日本では3段ぐらいから始めるので並み以上の能力のある人はたいてい飛び越えられるが、それ以下の人は落ちこぼれてしまう。ところが、アメリカでは全員が有無をいわさず一番低い1段の跳び箱からやらされる。そして、徐々に 1段ずつ増やしていく。それによって、日本より脱落者がずっと少なく、徐々に自分なりに飛ぶという感覚が身についていくことになる。

私は大学卒業後、会社に入ってからCMUに留学中したが、その時に受けたアメリカの工学の授業はまさにそのようだった。京大の授業では、数式の変形などや理論の証明は、たいていの場合「自習」するものであるという認識が教授にも学生にもあったので、CMUでの授業の進行の遅さには当初、唖然としたものだった。しかし、一学期間が終わるころには、授業の進み具合は総体として京大での進み具合とさほど差は感じられなかった。つまり、授業中で式の展開をちまちま説明するのを不必要と思っていたが、全体の理解をする上ではやはり必要だということを理解したのだ。

このことから、マインドフルネスが現代に受け入れられる要素としては、ここで述べたようなアメリカ式の教育プログラム一般に見られる「初歩の段階から着実に進める」という利点がある、ことがいえる。確かにマインドフルネスは内容的には、昔の哲学者や賢人が言い古したことではあるが、その理解に辿りつけない人を手引きして最終的な理解に至るまで導いてくれるのだ。

こういう利点は認めるものの、私はここにも一つの大きな欠点があると思う。それは、工作でいえば「プラモデル(プラスチックモデル)」や「レゴ(LEGO)」のように全てが手順書通りに運べば完成するという安直観を植え付けてしまうことだ。つまり、かつての禅問答や、老荘の言葉のように、いろいろと試行錯誤して解決策を見出すという自立的な要素がすべて洗い流されてしまうことだ。

ここで、伝統工芸がなぜ長い間、続いてきたかと考えるに、職人たちがいつの時代においても、知恵を振り絞って自力で技を磨いてきたからに他ならない。たとえ、最初は先輩の言葉どおりに従っていても、その内に自分なりの創意工夫をこらして自らの力で技の高みを目指してよじ登ってきたからだ。自力で得たものは、手順に沿って得るよりも時間と労力は数倍(あるいはそれ以上)かかるが、結果的に得たものは深く心に残る。

この意味で、私はアメリカ風に手順化されたマインドフルネスよりも、最初は手がかりがまったくつかめず呆然とする老荘や禅問答のような言葉から自分で納得できる見地に到達できるような自己研鑽の方がよいと考える。
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