限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第343回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その186)』

2018-02-01 18:01:17 | 日記
前回

【285.抑制 】P.4074、AD465年

『抑制』とは「おさえとどめること」という意味。この語は、辞海(1978年版)にも辞源(1987年版)にも載っていない。但し、Webの漢典には、「圧抑控制」と説明する。(説明というより、圧と控をつけて四文字熟語にしただけの話だが。)また、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)でも下の表のように合計 7回しか見えない。その内資治通鑑で4回使われている。「抑制」が日本では通常に使われていることを考えると、別の単語が使われていたと考えられる。ただ、現在の中国語では「抑制」が日本語と同じ意味で使われているようだ。明らかに明治以降、日本語から中国語に取り入れられた単語である。



資治通鑑で「抑制」を使われている場面を見てみよう。南朝宋の第5代皇帝に就任した劉子業が目障りな実力者を殺した場面。

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廃帝となった劉子業(以下、帝という)がまだ幼いころにすでに気が短く凶暴であった。即位した当初は、太后や大臣たち、および戴法興を恐れて遠慮していたが、前年に太后が亡くなり、帝自身も歳をとるに従い、ようやく本性を現して勝手にふるまうようになった。戴法興はそこで、帝を抑制しようとして、帝に向かって「このような振る舞いをなさるとは、営陽王の二の舞になってもいいのですか!」そう言っても、帝には全く応えなかった。帝がかわいがっている宦官の華願児に無暗と褒美を与えた。戴法興はいつも、この命令を改ざんして減らしたので、華願児に恨まれていた。

帝が華願児に街中にでて、民が謳っている歌詞を調べさせたところ、華願児は宮中に戻ってきて帝に「街中では誰もが『宮中には天子が二人いる。戴法興が本物の天子で、帝が偽物だ。』また、帝は宮中の奥深くにいるので外界と接触できないことをいいことに、戴法興が太宰(劉義恭)や顔師伯、柳元景らとグルになっています。来客がいつも数百人いて、官民ともその勢力になびかない人はいません。戴法興は先帝(孝武帝)に仕えていたので、長年にわたり宮中に勢力を張っています。今、戴法興は新たに他人と組んで王朝を起こそうとしています。そうなるとこの玉座も帝のものではなくなることでしょう。」このように唆されたので、帝は戴法興を罷免し、故郷に戻るよう命じた。その後、更に遠方に移した。八月、戴法興に死を賜った。

廃帝幼而狷暴。及即位、始猶難太后、大臣及戴法興等、未敢自恣。太后既殂、帝年漸長、欲有所為、法興輒抑制之、謂帝曰:「官所為如此、欲作営陽邪!」帝稍不能平。所幸閹人華願児、賜与無算、法興常加裁減、願児恨之。

帝使願児於外察聴風謡、願児言於帝曰:「道路皆言『宮中有二天子:法興真天子、官為贋天子。』且官居深宮、与人物不接、法興与太宰、顔、柳共為一体、往来門客恒有数百、内外士庶莫不畏服。法興是孝武左右、久在宮闈;今与他人作一家、深恐此坐席非復官有。」帝遂発詔免法興、遣還田里、仍徙遠郡。八月、辛酉、賜法興死。
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なんともでたらめな話ではないか!戴法興に落ち度が全くないにも拘わらず、宦官の讒言で宮廷から追い出されただけでなく、自殺させられた。ここには書かれていないが、当然のことながら、戴法興の子孫も無事ではすまなかったはずだ。

学校の歴史では、中国の政治体制は専制君主制だった、と習うが、資治通鑑の記事から政治の実態を見るとそうではなかったことが分かる。ここに見られるように実際には全く権力のない宦官のような人間の一言、二言で帝の気持ちが大きく左右されていた。つまり、中国という国は名目上は皇帝が専制的に治めていたようでも、実際には精神的なあやつり人形にすぎない皇帝はかなり多くいた。

続く。。。
コメント
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