限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第213回目)『独断の近代中国政治家の評価』

2017-11-19 15:21:19 | 日記
今年(2017年)の夏に、小学館新書として
 『世にも恐ろしい中国人の戦略思考』
を上梓した。この本は、タイトルからは分かりにくいが、前著の角川新書、
 『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』
の続編である。つまり、資治通鑑の記事がメインとなっている。

しかし、前著同様、資治通鑑以外の記事も多く載せている。とりわけ、このブログでもしばしば取り上げているギリシャ・ローマの記事や、李朝王朝実録からの引用記事などは通常の中国物ではあまりお目にかかれないものではないだろうか。

さて、この本の出来栄えについては、手前味噌で恐縮ではあるが、私自身かなり満足している。というのは、編集者の岡本八重子さんに読者目線からいくつか鋭い指摘をして頂いたおかげで、読みやすいと同時に読み応えある内容となったからである。その一例として、同書の P.212 - 213 に私の『独断による中国政治家の採点表』を載せたことが挙げられる。これは、筋からすると資治通鑑と無関係な話題であるが、打ち合わせの時に雑談としてこのような話を岡本さんにしていたところ、それを是非今回の本に載せて欲しい旨、依頼された。その時、ページ数の関係で、各政治家については、数行で良いとのことであった。しかし、書いていると次第に行数が増えたので、削除されることを前提に、倍以上の行数をそのまま提供した。

しかし、当然のことながら製本の段階で、スペースの関係上、いくつかの文章が削られた。そこで、このブログでは、当時の原稿に、さらに加筆したものを示すことにした。これによって、私がどのような思想信条をもっているかがある程度お分かりいただけるかと思う。私は、現在の中国の状態は、政治腐敗や環境汚染で、お世辞にも褒めたものではないとは思うものの、かといって、日本の政治家ならとっくの昔に大混乱で収拾がつけられなくなっているだろう大国を切り盛りしている共産党政権の政治家連中の凄腕には、善悪を超越して敬服している。これは、資治通鑑を通して読んでみて痛感したのだが、中国を曲がりなりにも空中分解せずに操縦することがどんなに奇跡に近いことであるか、ということだ。
(尚、配点は、5点満点で、5が上、1が下。)



【毛沢東】― 4

大多数の農民が餓死線上を這い回り、土匪(匪賊)が跋扈していた旧体制を見事に破壊した。建国当初はすくなくとも人民は食うことができ、土匪やアヘンが一掃された。その後、幾多の権力闘争で無数の政治家、人民を巻き添えにした罪は建国の功績を帳消しにするほど重い。

建国当初は文人を極端に排撃したのは、一説には毛沢東が北京大学図書館で事務員をしていた時に学者連中にいじめられた仕返しだともいわれる。しかし、毛沢東自身は非常に正統な中国文明の後継者を以って任じていたのであろう、文化事業に対しては清の康熙帝並みの(皮肉ではなく、本当の意味で)立派なことを成し遂げた。

このように功罪とも並みはずれているが、資治通鑑を読んでみて感じるのは中国のスケールから判断すれば、この程度(数千万人の死者、文化大革命が引き起こした数多い冤罪事件と文化破壊)はそれほど凶悪でないのでは、と思えるところが中国の恐ろしさである。ただ、中国ではどの王朝も建国者は別格扱いで尊敬される伝統がある。この意味で、毛沢東は今後も共産党の支配が続く限り、祖国の英雄として崇(あが)められ続けることは間違いない。

【周恩来】― 5

共産党入党は毛沢東より先んじていたため、一時は毛沢東の上司であった。その後、毛沢東がトップに立つや、敢えてその権力に挑まず耐え忍び、毛沢東の面前ではピエロの役を演じることさえも辞さなかった。文革時には、先祖の墓を破壊するというパフォーマンスで旧体制批判をして紅衛兵の批判をそらすなど、外面では日和見的な行動はあったのは否定できない。

しかし、一貫してひたすら国民の福祉を考えた。晩年、膀胱がんになって「血の小便」を流しながらも、けっして弱音を吐くこともなく、また敢えて休養を取ることもなく、死力を尽くし、死の直前になってようやく体力が続かなくなって文字通り「死の床」についた。

周恩来の表面しか見ない人からは、毛沢東にすりより、伝統文化の破壊に与したと、否定的にしか見られないが、そういうことを百も承知で、「天下為公」に尽力した一生であった。世評に振り回されるのではなく、己の信念を貫いた、という意味で、周恩来は現代版・馮道と言える。

【劉少奇】― 5

毛沢東の盟友でありながら、最終的には毛沢東の猜疑心から政敵とみなされ悲惨な最期を遂げた。しかし、建国後の功績は偉大で、とりわけ経済面では毛沢東をはるかに凌ぐ。両者の関係は昔の例でいえば、あたかも劉邦をサポートした蕭何のようだ。ただ、残念ながら毛沢東と劉少奇の関係は劉邦と蕭何のように君臣の関係ではなく、政権のトップを争うライバルであった。

とりわけ、1962年、7000人もの幹部が集まった中央工作拡大会議で劉少奇が大躍進政策を公然と批判したことから毛沢東の底知れぬ恨みをかった。しかし、毛沢東は恨みを露ほども見せず、劉少奇が油断するのを執念深く待ち、外遊にでた隙を狙って、紅衛兵を動員して文化大革命の大乱を起こした。「将を射んとせば、まず馬を射よ」の格言通り、本丸の劉少奇から遠いところからじわじわと締め上げた。

そして遂に劉少奇を紅衛兵の暴行にさらした。その結果、蕭何の場合は、劉邦から疑われた時に暫時[しばらくのあいだ]の入獄で済んだが、劉少奇は拷問ともいえる悲惨な死が待っていた。

【鄧小平】― 5

鄧小平は若いころに、パリに数年暮らしたので、西洋流の自由主義社会の長所と短所を実体験として知った。この経験は周恩来もそうだが、毛沢東などとは異なり、それまでの中国の政治家にはない、博愛的(Philanthropic)な政治理念をもつようになったと私には思われる。

それで、劉少奇と共に中国の近代化に邁進していた時は、今こそようやく中国を偉大な国にできると夢みていたのであろう。その後、文革で失脚するも、周恩来や毛沢東の助けもあって命は保証された。四人組の追放のあと、うぶな華国鋒の権力を、気づかれない内にひたひたと削ぎ去って、実力ナンバーワンとなった。その後、良く知られるように、改革解放を提唱し、現代中国の発展をもたらした。その功績は世界的にも高く評価される。

その一方で、民主派の胡耀邦および趙紫陽の解任と、天安門での軍事的弾圧は国際的にも国内的にも否定的評価を受けている。しかし、つらつら考えるに民主運動は一歩間違えば共産党政権を打倒する反政府運動に発展し、かつての軍閥が競った内乱状態に突入する危険性すら考えられた。当時(1989年)の中国国民の民度の低さや地方政府間の極端な不均衡から考えて西欧式の民主化は時期尚早とした鄧小平の判断は正しかったと私は考える。

【胡耀邦】― 4

鄧小平に認められて総書記となり、民主化を信念をもって進めた。しかし、共産党の一党独裁を否定するとして、鄧小平も加わった保守派からの攻撃に抗しきれず辞任に追い込まれた。

1989年の胡耀邦の死が天安門事件を引き起こしたことでも分かるように、知識人グループに絶大なる人気を誇った。人気といい、脇の甘さといい、文人の風格といい、また政治的に不遇の最後を遂げたことといい、北宋の蘇軾(蘇東坡)を連想させる。胡耀邦も蘇軾も動乱の世を治めていくにはあまりにも情が深すぎたと言えよう。政治家となったのが、悲劇の引き金であった。詩人あるいは文人のまま、己の信じる所を進めば、あるいはハッピーエンドを迎えることができたのかも、と感じる。

【江沢民】― 2

天安門事件に関連して上海で発生しそうになった暴乱をいち早く防いだとして鄧小平から高く評価され、李鵬を押しのけて党主席に任命された。しかし、それまで中央に基盤を持たなかった江沢民は民主派が追放されて、保守派が主流となると見るや鄧小平の意図に反して、保守派に迎合する政策を打ち出した。そして誰もが公然とは異議を唱えることのできない「反日愛国」と「親米」をスローガンとして、鄧小平時代の親日遺産を根こそぎ叩き潰して、実権を奪取することを画策し ― 多分、本人ですら ― 望外の成功をおさめた。

さらに権力基盤を強固にするため、自派やすり寄る者たちに利権をばらまき、その結果、底なしの政治腐敗をもたらした罪は万死に値する。確かに1990年代の江沢民政権期に中国が発展したのは間違いないが、それはひとえに、朱鎔基の功績と私は考える。

死亡説や危機説が唱えられながらも、最近( 2017年10月)の共産党大会でも、健全な姿を見せつけていた。子飼いの薄熙来と周永康の両人をもぎとられても、それでも権力の座にしがみつく、その鬼気迫る姿は、まるで怨念が人形(ひとがた)となって歩いているようだった。資治通鑑を読んでいるとよく出てくるが、悪役のスケールが大きいほど、また執念深いほど、場面がドラマチックになる。老い先はもう長くないが、江沢民が死んだ時に、また大きなひと波乱起こるであろうことは間違いない。中国では人は、『棺桶を蓋って評価が定まる』というから、江沢民の最終的な評価もあと数年は待つ必要があるということだ。

【朱鎔基】― 5

朱鎔基は北宋の王安石を彷彿とさせる、頭脳明晰で実行力をもった偉大な政治家だ。強い信念を持つがために孤高であり、地位や権力を悪用して蓄財や徒党を組むことがなく清廉な人であったことも共通している。もっとも近親者の蓄財は指摘されているが、最近はとんと話題にものぼらない。

朱鎔基は学生時代から英語に堪能で、英語でも当意即妙にユーモアを交えて講演することができたため、西側での評価は非常に高い。西のジャーナリストを感心させることができるというには、相当、西側の文化を詳しく知っていなければできないことだ。この意味で、朱鎔基は中国随一の国際的文化人であったと言えよう。

【胡錦濤】― 3

胡錦濤は同じく共産主義青年団(共青団)出身である胡耀邦の人格に傾倒した。それで、胡耀邦の失脚時には鄧小平の判断に逆らい、胡耀邦の解任は不当だと主張した。冷めた言い方をすれば、親分がこければ、自分もこけてしまうという危機感に駆り立てられたとも言えなくもないが、やはり胡錦濤の「純な」性格が素直にでたのだと私は思う。まさしく「義を見てせざるは、勇なきなり」を実践したのだ。

その一方で、チベットの民主化運動をいち早く武力鎮圧した。結果的に、このような処置が鄧小平に認められる所となり江沢民の次期主席に任命された。とんとん拍子に最高権力者にはなってみたものの、本来の人間性からして頂点に立つには性格があまりにも「純」ではなかったのだろうか、主席になってからは、日中共同声明で日本が戦後、平和国家として発展したことを認めるなど、ある程度の功績はあるものの、江沢民派の巨大な勢力に阻まれて、経済面はともかく、政治面ではあまり実績を残していない。中国の政治家というのは、人間性が良すぎると大成しないということだろうか?

【温家宝】― 4

胡錦濤政権にあっては、温家宝の果たした役割はかなり大きいと言える。かつての周恩来を思わすようなこまやかな気配りは国の内外で共感を呼んだ。とりわけ、西側での評価は胡錦濤より高いようだ。伝聞なので、確かな情報ではないのかもしれないが、ヒラリー・クリントンが国務省長官として当時の胡錦濤政権の政治家を批評した時、胡錦濤については全く触れず、ひとこと「温家宝はすぐれた政治家だ」と言ったとか。その意味から、国権のナンバー3(胡錦濤、呉邦国に次ぐ)では少々役不足であったかもしれないが、そうだからと言ってナンバーワンになっていたとしても、必ずしも大活躍できたとも言えない程度の器だと私は思う。

どの程度、温家宝自身が関与したかは分からないが、政権を退いてから身内の巨大な隠し財産が暴露されている。朱鎔基のケース同様、これも続報はないが、この程度の金額なら(数百億円?)中国の政治環境では「ご苦労さん謝金」レベルなのであろう。もっとも、敵方であれば、このレベルの金額なら収監ものであることは間違いない。現行政権に少しでも自分の味方を残すことがいかに重要であるか、江沢民、朱鎔基、温家宝の境遇を見るとよく分かる。

【習近平】― 4

2012年に総書記に就任してから5年が経過し、最近(2017年10月)から第二期に突入した。この間、胡錦濤時代に解決できなかった共産党の最高幹部(具体的には江沢民一派)の腐敗の摘発にも踏み込み、着実に実績を上げている。しかし、南沙諸島問題では国際的に批判されているが、軍事的な領土拡大は習近平の一存ではなく、共産党の長老や軍部の意向だとみるべきだろう。私は習近平(だけでなく李克強)は中国がこれから国際的にどのように振る舞うべきか十分承知していると思っている。最近では、米トランプ大統領とサシで話し合い、南沙諸島問題を度肝をぬく大金で決着をつけた辺り、剛腕でありながら、あざやかな政治手腕には全く脱帽する。

日本も数十年前、ソ連が経済的に窮地にあった時、習近平がやったのと同様、日本国内の反発を強引に押し切ってでも北方領土を金で解決すべきであったと私は以前から思っている。今となっては、ロシアは経済的にも安定し、またクリミアなどでの領土問題で国民がロシア覇権主義を支持しているので、もう二度と金で解決できる事態にはならないであろう。キケロのいう如く、幸運は前髪しかない、のである。

話を元にもどすと、江沢民以降の指導者たちは、習近平も含め、かつての毛沢東や鄧小平のように実戦経験をもった実力者と違い、現在では国家主席といえどももはや党や軍部を思い通りに動かすだけの実権を得ていないということが分かる。大きな船は舵を切ってもすぐには航路を変えることができないように、大国の中国は、たとえ英明な指導者たちがいても直ちに国の進路は変わらない。

【参考図書】
『世にも恐ろしい中国人の戦略思考』(小学館新書)P.212 - 213.
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