獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「地の塩」その31)当事者に近いところに視点がある

2024-07-26 01:53:51 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt54 - 宮本常一の視点

2019年2月4日 投稿
友岡雅弥


民俗学者・宮本常一は、「旅する巨人」と言われていました。生涯に旅した距離は延べ16万キロ。写真だけで10万枚。今みたいに、デジタル・カメラやスマートフォンで、手当たり次第に撮ったら、自動的にパソコンやクラウドなどに保存出来るような時代ではありません。撮ったものはフィルム現像して、選んで、紙に焼き付けねばなりません。

著作集が未來社からでていますが、これもすべての文章ではなく、選んだものだけで400頁ほどの箱入りハードカバー単行本で50冊を超えます。

彼の行動や考え方は、いわゆる「保守」と「リベラル」(もう「保守」の反対語は「革新」ではないのですよね) という区分けの無効性をよく示しています。
彼の著作には、「戦争」の影がほとんどでてきません。「原爆」の影も。
しかし、例えば彼の監修した『日本残酷物語』シリーズを読めば、淡々とした筆致で、社会の片隅に、「最底辺」に、うち捨てられた人たちの姿と、その人たちをうち捨てた「日本」という国の残酷さが、はっきり見てとれます。

彼の著作集のなかで、例えば、第48巻の『林道と山村社会』について、その目次を見てみましょう。シャーっと見てもらったらいいです。

I 林道
はしがき
一 林道の意義
二 国有林道の地元利用
三 伐採林業と林道
四 造林と林道
五 農村救済林道
六 個人 (会社) 林道
七 林道政策
八 林道布設にともなう諸問題
九 林道と森林組合、森林開発公団

II 林道とその効果
はしがき
一 高知県幡多郡十和村昭和地区
一 村の生産の変遷
二 林道改修経緯
(1) 林道開通以前の山地の利用
(2) 山林分割と炭焼き
(3) 林道改修
(4) 林道工事とその費用
三 林道のおよぼす影響
(1) 工事費の地元負担
(2) 林道の効果
(3) 村の経済事情の変化
二 静岡県磐田郡水窪町
一 町の概況
二 林道開通以前の交通と産業
三 材木流送
四 白倉川林道開設と経費
五 林道のおよぼす影響
(1) 林業経営の合理化
(2) 輸送状況の変化と木材、 林地価格
(3) 林道の効用
(4) コミュニティセンターの形成
(5) 奥地山村の変貌
(6) 国有林関連林道
三 和歌山県西牟婁郡中辺路町栗栖川
一 産業の変遷と土地移動
二 人工造林の発展
三 林道の開設
四 林道の経済効果
五 林道に対する要望
四 林道事業に付帯するもの
一 林道の性格
二 林道と経営指導
三 売手市場の確立
四 森林組合の強化
五 戦後林道政策
一 回顧
二 林道対策と林道利用
付表

Ⅲ 林道の投資効果
はしがき
一 林道開設の意義
一 安家川林道
二 白倉川林道
三 大道谷林道
四 五家荘林道
五 多目的林道
二 林道開設地区の経済基盤
一 奥地山村の経済状況
二 安家川林道区域
三 白倉川林道区域
四 大道谷林道区域
五 五家荘林道区域
六 奥地林道開設のおくれた事情
三工事の規模と地元負担
一 幹線林道
二 支線林道
三 僻地林道の不合理性
四 資源
五 経済的効果
一 経済的効果の問題点
二 安家川林道
三 白倉川林道
四 大道谷林道
五 五家荘林道
結び

IV 林道開設と地域開発
一 後進地域の事実認識
一 行きどまりと通りぬけ
二 山地の産物
三 特別地域開発と山村民
四 奥地林道の効果
五 山村の宿命
二 後進地開発のヴィジョン
一 山地における道と産業文化
二 道の利用価値を高める
三 安住の地たらしめよ


すごい細密ですよね。いくつか通ったことのある林道とかもあって、ええ、あんなところまでいったのかとか、感動してしまいます。
そして「後進地開発」というと、現代の目でいうと「経済至上主義」か、と思いますが、それは言葉遣いだけであって、「視点」は、「先進地から後進地を見る」のではなく、「後進地から、未来を見ている」のではないかなと、他の項目を概観しただけで分かります。
「コミュニティセンターの形成」とか、東日本大震災以降のことじゃないかと思いますが、60年前なんですよね。
考えている人は、考えてるんです。

そして、宮本常一の場合は、とても、当事者に近いところに視点がある。「~を見ている」のではなく、「~から見ている」のです。

これって、何らかの支援活動を長くやってたら経験するんです。中途半端な僕でもね。

生半可に分かった顔をしている学生さんとか、行政の人とか、もちろん社会人もですけど、「そんなやり方ではいけない」とか言ってくるのですが、実際、その人たちの考えていることをそのままやったらどうなるか、こちらは、まあ長年の経験で、痛い目にあってるんです。

だから、その人たちの考え方の通り進めれば、どうなるか分かるわけです。
これはええかっこではないですよ。
多くの失敗をしてきたからです。

「御高説はわかりました。では半年でもやってみてください。いや、3ヶ月でもいいですよ」という感じなんですよね。

宮本常一の「庶民の風土記を」という文章があります。これは日本のあちこちの地域の歴史や民俗を紹介した大著『風土記日本』の中に収められた一文であり、宮本は何のために歩いたのかを明確に表した文章です。

「一般大衆は声をたてたがらない。だからいつも見過ごされ、見落とされる。しかし見落としてはいけないのである。古来、庶民に関する記録がないからといって、また事件がないからといって、平穏無事だったのではない。営々と働き、その爪跡は文字に残さなくても、集落に、耕地に、港に、道に、あらゆるものに刻みつけられている。人手の加わらない自然は、雄大であってもさびしいものである。わたしは自然に加えた人間の愛情の中から、庶民の歴史を嗅ぎわけたいと感じている」

さて、こうの史代さん原作の映画『この世界の片隅に』が、異例のロングランとなり、巨大予算のハリウッド映画よりも、人々に観られた(今も観られ続けている)のは、原爆の悲惨さを直接描くのではなく、一人一人の日常の暮らしを淡々と描くことによって、「失われたもの」「奪われたもの」のかけがえのなさを、人のこころに鮮明に刻むことができたからです。

戦争のときだけ、かけがえのない暮らしは奪われるのではありません。病気やリストラやハラスメント、事故、漁師さんだったら、黒潮の蛇行などの自然の変化もそうでしょう。
普通の生活、特に、困難な暮らしを営む人々の、営々とした日常を、宮本常一は記録しようとしました。

福島に通い続けて思うんですが、反原発のデモも大事です(僕も国会前に行きましたから)。しかし、原発事故で、奪われたもの、例えば、戦後開拓で何もないところに入植し、「日本で一番美しい村」に認定され、自分ところにはない原発のせいで、その故郷を奪われた飯舘村の、人々の、「奪われた暮らし」こそが、一番の「反原発」だと思うんですが、どうでしょうか?


解説
宮本常一の場合は、とても、当事者に近いところに視点がある。「~を見ている」のではなく、「~から見ている」のです。
これって、何らかの支援活動を長くやってたら経験するんです。

なるほどなと、思いました。
勉強になります。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その30)「文章が音となって立ち上がってくる」ような文章

2024-07-25 01:36:29 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt53 - 篠田鉱造翁のこと

2019年1月28日 投稿
友岡雅弥
                

篠田鉱造さん(1871-1965)は、新聞記者として幕末から明治にかけての多くの聴き取りをして、記事にしたかたです。

篠田翁が記者をしたのは報知新聞です。報知新聞は、今では、読売新聞の傘下にあるスポーツ紙ですが、明治以来、戦前までは、政治・社会情勢をもっぱらあつかう新聞として、トップを走っていました。

篠田さんの記事は、「新聞記事」という範疇を超えて、『幕末百話』『明治百話』などの著作となり、今、その激動の時代の第一級資料として貴重なものとなりました。

今では、その後つづく、農村、引き揚げ、ハンセン病、在日外国人、戦争体験などの「聴き取り調査」の「原点」として、高く評価されています。

手製のミニコミをつくって、谷中・根岸・千駄木という地域に生きる人たちの生活を発信し、「谷根千」という言葉を産み出し、そして、そこが東京下町の、落ち着いた風情を残す場所として全国的な人気となる。そんなコミュニティ・ワークをされた森まゆみさんも、篠田翁の文体を「文章が音となって立ち上がってくる」(『明治百話』解説)と高く評価しており、自らも、戦前・戦中・戦後の東北地方の膨大なフィールドワーク・聴き取りをされた横浜国立大学の大門正克さんも、著作『語る歴史、聞く歴史』のなかで、「聴き取り」の原点として、多くのページを、篠田鉱造さんに割いています。

篠田翁の卓越性は、ただひとえに、従来の歴史では記録として残らなかった庶民の言葉を記録した。
そして、従来の記録には残されなかった「時代の雰囲気」が記録された。

この2点につきます。

石川島の人足寄場に、後に主たる貿易輸出品ともなる陶器の絵付けを、囚人に教えた職人のかたり、首切り役人からみた、政治犯たちやその人たちに対する江戸の人たちの共感。

などなど、とてつもない貴重な記録の連続です。

では、なぜ、篠田鉱造翁が、このような貴重な「庶民の記録」を残せたのか?

篠田翁の父や祖父はとても教育熱心でした。息子・孫の鉱造が、全然勉強しないことに悩み、知りあいの床屋(理髪店)のあるじが、自らは読み書きができないけれど、 息子のために、貧しくはあったのですが、当時は考えられない「勉強部屋」を新築し、そこに漢籍などをおき、おかげで、息子は教員となった。「鳶が鷹を産んだ」と近所の評判であった。この床屋に住み込ませ、そしてその勉強部屋で暮らさせたら、鉱造も教師などになるだろう。

――そんな目論みでした。

この「勉強部屋」が、まさに鉱造少年が偉業を成し遂げる「拠点」となったのです。 ただし、祖父たちの目論みとは、正反対のかたちで。

その「勉強部屋」からは、髪を刈るハサミの音とともに、床屋の「おやじ」と「客」の会話が手に取るように聴こえるのです。

しかも、今の「居酒屋談義」みたいな、酒飲みのおっさんたちが、テレビの討論番組の受け売りをして、ヘイト談義をするのではありません。

この前まで江戸時代で、引っ越しの自由も制限されていた。つまり、完全な顔なじみ。だから、単なる「話題」で済む訳はないのです。生活から性格まで、分かっている訳ですから。

それで、「無学な庶民」かもしれませんが、「お天道さまに誓っての責任ある、世間話」が語られたのです。

これによって、鉱造少年は、いろんな職種の職人さんたちや、世間の動向、それが庶民の暮らしにどのような光と影をもたらすかを、毎日、毎日、聴いていったのです。

抽象的な議論は、もうええような気がします。
具体的な生活に根ざした、生活者としての経験と責任に裏打ちした会話は、一人一人をどれだけ賢くするか。

そのことが、居酒屋談義みたいなものがテレビやネットやSNSで垂れ流されている今、とても、大事な気がします。

 

 


解説
抽象的な議論は、もうええような気がします。
具体的な生活に根ざした、生活者としての経験と責任に裏打ちした会話は、一人一人をどれだけ賢くするか。
そのことが、居酒屋談義みたいなものがテレビやネットやSNSで垂れ流されている今、とても、大事な気がします。

同感です。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その29)地方活性化の星、ウィルミントン (オハイオ州)

2024-07-24 01:18:53 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt52 - ある町の復活

2019年1月21日 投稿
友岡雅弥                   

2005年、国際航空貨物大手であるDHL(世界最古にして最大の物流企業)は流通網を再編し、ウィルミントン空港を全米流通網のハブ空港としました。

従業員および関連する雇用により人口が増加し3万人の町となりました。町の未来は、順風満帆に見えました。


しかし、2008年のリーマンショック(2008年9月)をきっかけに、なんとDHLは撤退を決めたのです(11月)。

人口の3分の1にあたる約8,000人の雇用が失われました。致命的打撃です。巨大グローバル企業に依存した町の未来は巨大グローバル企業の撤退に拠って、一瞬に暗雲がたちこめたのです。

同じ、巨大物流企業UPSに来てもらったら、そのままのインフラが使える。いや、景気が悪いから物流はダメだ。じゃあどうする?

つまり、巨大企業や国などの支援を受ける町づくりは、このような突然の撤退もあるわけです。ならば、まったく新しいことを考えよう。

それでウィルミントンは何をしたかというと、五つのコンセプトを立てました。

Local Business

Local Food

Local Energy

Local Visioning

Local People

グローバルではなく、「ローカル」

国際的な変動に影響を受ける、グローバル依存型ではなく、「ローカル自立型」。


地元の歴史的建築物のリノベーション。

地元出身の大学生たちが地元に戻り、地元にかかわる10週間のインターンシッププログラムの実施。

「サードウェーブ」と呼ばれる物品販売より、交流とコミュニケーションにちからをいれたお店。

それで、美しい地方の、農業の町として再生していったわけです。

完全V字回復です。

世界から、見学者が引きも切らずに訪れる、町づくりのモデルとなったのです。


このお話には、個人的な続きがあります。

世界的には、有名な、このウィルミントン。日本の国内で、この町の名前を耳にしたことはありませんでした。大学とかでも、ほとんど教えられていない。

ところが、ある時から、ある場所で、頻繁に耳にするようになったのです。


東日本大震災後の岩手です。ウィルミントンを目標にしているというかたたちに、田野畑村や、岩泉、陸前高田、葛巻で、つぎつぎとであったのです。

実際、ウィルミントンにも行ってる!

地方と地方が、直接繋がっているのです。

未来は、こんなところから始まるのです。


解説
ウィルミントンについては、まったく知りませんでした。
ネットで調べてみると、アメリカには、ウィルミントンという地名が、オハイオ州とデラウェア州にあるようです。

ここでいうウィルミントンは、オハイオ州の方です。

ウィルミントン (オハイオ州)
ウィルミントンは、アメリカ合衆国オハイオ州南西部に位置する小都市。同州シンシナティと州都コロンバスという、2つの大都市の中間に位置する。人口は11,921人。
ウィルミントンは、2005年、国際航空貨物大手であるDHLは流通網を再編し、ウィルミントン空港をハブ空港化したことで脚光を浴びた。流通拠点としてDHLの従業員および関連する雇用者により人口が増加したが、2008年11月、不況のためDHLはウィルミントンの事業所群を閉鎖。このため約8,000人の雇用が失われ、ウィルミントン市および周辺の失業率は増加した。
(Wikipediaより)

地方の活性化を考えるときのモデルが、ウィルミントン (オハイオ州)なのですね。

勉強になりました。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その28)「日本負けたな」と思いました

2024-07-23 01:27:43 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt51 - 日本の未来は

2019年1月14日 投稿
友岡雅弥                 

2012年の夏。岩手県の山田町に行きました。津波で壊滅的な打撃を受けた町。

町の中心に残った建物は、ほとんどありません。建物の土台だけが、生い茂る草のなかに残っています。不思議なことに、古い蔵はところどころ残っていて、明治三陸津波や昭和三陸津波も、乗り越えてきたから、今回も残ってるんだなと思いましたね。


かろうじて、地域コミュニティの拠点におじゃましました。かろうじて建物の外側が残ったところです。津波から1年経っているので、ぐちゃぐちゃだった建物の中も整理されていました。

ここで、週一度、子どもたちが集まり、町の未来について、行政に要望を上げようとしているのです。

子どもがそんなことをするのか、って思いはる人もいらっしゃるかもしれませんが、「未来」には、子どもたちは大人になるのです。自分たちが住む町のことを考えるのは当然です。

日本では、全然、根付かなかった「コミュニティ主権教育」が、ここ東北の被災したところではじまってるんだな、と思いましたね。ここだけじゃないですね。閖上でも、雄勝でも、あちこちで、子どもたちが、かなりリアリティもって、取り組んでました。東京のコンサル会社に見せてあげたい光景です。


さて、さて、そこに1人の男性がいました。30代ぐらいかな。子どもたちの集まりを真剣にメモしてます。

どこかのメディアの人かなと思ったのですが、違いました。集まりが終わってから、尋ねると、中国の世界屈指の電子機器メーカーの社員さんでした。


そこの電子機器メーカーでは、社員さんを被災各地に1人づつ派遣して、そこの住民として暮らす。そして、現地の人が考え立ち上がってくる様を学ぶ。もし、そこでITやAI技術が必要ならば、本社も無料で支援する。


これ聴いて、「日本負けたな」と思いました。

政府の復興補助金を得ようと、ゼネコンやコンサルとともに、復興マネーに群がる日本の企業をたくさん見てきたからです。


もちろん、なかには、ロート製薬やカルビーなどのように、こんな良心と知性をともなった継続的支援があるんだと、びっくりしたような企業もありましたが。

確かに、企業としては、全部持ち出しです。でも、それによって、問題解決能力を1人の社員が蓄積する。現場のニーズを聴く能力を蓄積できる。それは、目先の「補助金」よりも、将来のためになる。


この視点が、今、日本社会に決定的に欠けていることだと思いましたね。

 

 


解説
企業としては、全部持ち出しです。でも、それによって、問題解決能力を1人の社員が蓄積する。現場のニーズを聴く能力を蓄積できる。それは、目先の「補助金」よりも、将来のためになる。
この視点が、今、日本社会に決定的に欠けていることだと思いましたね。

なるほどなと、思いました。

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その41) 7/21

2024-07-21 01:38:56 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第5章 小日本主義

(つづきです)

湛山は、三浦が主張していた「小日本主義」をさらに「近代的な小日本主義」として洗練させていくのであった。
そして、その論拠の中心に大学で学んだプラグマティズム哲学を据えた。大正4年5月25日号の社説「先づ功利主義者たれ」で、こう書いた。
〈功利一点張りで行くことである。我れの利益を根本として一切を思慮し、計画することである。我れの利益を根本とすれば、自然対手の利益を図らねばならぬことになる。対手の感情も尊重せねばならぬことになる〉、〈我等は曖昧な道徳家であつてはならぬ、徹底した功利主義者でなければならぬ〉
湛山のもっと急進的な言い分は、
〈日本がこの際、青島も満州も旅順も返還することである。一切の利権も同様に返還することである。かうしておいて、世界の列強に向かつて、日本がやつたのと同様の措置を取るべきではないか、と要求すればよい。これが日本のため、世界のためになる最大の方策だ。必ず、植民地などは不要になる時がくる。しかも近い将来であるから、日本がその先駆けになるべきではないか〉
であった。もう少し後の社説(大正10年7月13日号「一切を棄つるの覚悟」、大正10年7月30日~8月13日号「大日本主義の幻想」など)では、こうした湛山の主張と論法がいかんなく発揮されているのである。
大正7年(1918)1月、東洋経済新報社に、後に経済評論家として活躍することになる高橋亀吉が入社した。湛山より10歳年下の高橋は、幼い時の小児マヒのために左足が不自由であった。「こちらが編集局長の石橋湛山君だ。彼は高橋亀吉君。早稲田の商科を卒業してしばらくよそにい たんだが、今年からうちに来てもらった。よろしく頼むよ」
三浦から紹介されて、湛山は「よろしく」と笑顔を見せた。
高橋は独学で大学受験資格を取得して、早稲田に入った。東洋経済新報社では早くも大正13年(1924)に編集局長になり、一貫して在野のエコノミストとして論陣を張った。戦後の日本経済の成長期には、池田勇人首相の経済ブレーンを務めている。
その高橋相手に湛山は「小日本主義」の必要性を説いた。その熱気に高橋も思わず引き込まれた。編集会議の前のことだった。
東洋経済新報社は記者全員で編集会議を開くが、この時はまだ編集記者が外回りなどで集まりが悪く、会議室には編集局長の湛山と、高橋だけであった。
「いいかい、高橋君。日本が満州や朝鮮に植民地的な特権を持っている限り、中国民族や朝鮮民族の反感は消えることはない。それどころか、反日感情がもっと助長されて取り返しのつかないことになってしまうだろう」
高橋は、頷くしかなかった。自分にはまだ政治のことはよく分からないのだという自覚があった。湛山は続けた。
「それにだよ、かの国の天然資源や土地が日本の人口過剰問題の問題解決にはつながらないんだ。それどころか、植民地領有は必ず軍事支出を増大させるので、国家財政は圧迫される。結局、国民生活が悪化するだけなんだ。見ててごらん、日本の植民地政策は列強やアメリカとの対立を生んで、日本が国際的に孤立することになるから。その結果、どうなるか。戦争になる。それも大がかりな戦争にね」
湛山の予言とも言えた。それは後に大当たりに当たる。
「しかし、石橋さん。日本が資源に乏しいのは事実ですし、領土も狭い。だから資源の豊かな他国の領土をあてにするしか国家発展の道はないという考えは、必ずしも間違ってはいないと……」 
「高橋君、それは君の意見ではないね。今、君は僕に反論のための反論をしているね」
湛山から指摘されて、高橋は頭を掻いた。
「じゃあ、これからは君が僕の意見に反論するという形で想定問答をしようや」
「はい、分かりました」
「じゃあ、続けるよ。 どうしてアジアの植民地を手放すべきか、という問題だ」
「ええと、日本はアジアの植民地があるから資源や人口の問題を解決できるのに、ということです」 
「それが違うんだな。少し統計を見れば分かる。日本の輸出総額を朝鮮、台湾、関東州の3つの植民地と、アメリカ、イギリス、インドの3国とで比較すればどうなる?」
大正9年(1920)の統計によると、3植民地との貿易総額は9億1500万円であったが、これに対してアメリカとは14億3800万円、イギリスとは3億3000万円、インドとは5億8700万円の、合わせて23億5500万円になる。
「日本の経済の自立という点から見ても、単純に比較しただけで3植民地よりも3国との貿易のほうが遥かに重要であることが分かるじゃあないか」
「本当ですね。でも、我が国の工業のうえで必要な原料である鉄や石炭、綿花、米、羊毛などは植民地から……」
「いや、それも違う。鉄も石炭も植民地よりはアメリカやイギリスからのほうがずっと多いんだよ」
「石橋さん、もう一度人口の問題についてお聞きしたいのですが」
「ああ、いいよ」
「日本は領土が狭く、人口は年々増加しています。この人口膨張の日本にとって海外移民は人口問題の解決上、不可欠な手段ではありませんか」
「いいかい、日本の人口は明治38年から大正7年までの13年間で、945万人増加した。これだけ見ると大変な数字に見えるがね、現在の人口は6000万だよ。そのうちの僅か80万人程度が植民地に出ていったところで、食糧問題の根本的な解決になるわけがないだろう? むしろ、国内産業を育成し物資を輸入したほうが、世界の安定には必要なのだよ」
「次は軍事問題です。国防という考え方は出来ないのですか」
「国防というが、本土の国防かね。違うだろう? 戦争が起きる危険性はむしろ、中国とかシベリアとかの問題ではないかね。それは根本的にアメリカとの利害の問題でもある。アメリカは必ず、中国、シベリア問題で日本と敵同士になるだろう。だから我が国がこれらへの野心を棄てるならば、または満州、台湾、朝鮮、樺太すべてをいらないと言えば戦争は絶対に起きやしない。国防とは他国を侵略する際の列強、もしくはアメリカとの戦争を想定してのものなのだよ」
高橋は、黙って頷くしかなかった。いくら想定問答であっても、これほど明快に分かりやすく、数字まで使って説明されては手も足も出ない。
「高橋君、僕が小日本主義を標榜して、大日本主義を否定するのは、決して小さな日本の国土に拘泥せよ、というのではないんだ。世界を国土にして活躍すればよい、とそう言っているんだ。詭弁じゃあないと思うんだがねえ」
「それには何を、どうすればいいというのでしょう?」
「産業を大いに興すことさ。たとえ数々の制限があったとしても、資本さえあれば大丈夫だ。領土を奪わずとも、日本の資本を外国の企業投資に回してもよいではないか。経営さ」
高橋はのけぞるようにして、声を上げた。この時点でこんなことを言う人物を高橋は知らなかった。いや、こんな発想が出来る人物は、日本には石橋湛山しかいないだろうと思った。
「いいかい。資本は牡丹餅で、土地は重箱だ。入れる牡丹餅がなくて、重箱だけをいくつも集めたところで意味はない。愚かでさえあろう。ところが牡丹餅さえたくさん出来れば重箱なんぞは隣の家からいくらでも喜んで貸してくれるだろう。そういうことなんだ。その牡丹餅たるところの資本を豊富にする道は、ただただ平和主義しかない。平和主義によって、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐしかないのだよ」
「そうですね。貿易立国というのは素晴らしいではありませんか」
「貿易立国ばかりでもいけない。国内では兵営の代わりに学校をたくさん建てて教育することだよ。軍艦の代わりに工場を造ればいい。陸海軍の軍事費が8億円かかっているのだが、そのうちの半分を毎年、平和的な事業に投じたら日本の産業は全く変貌するだろうし、日本の国そのものが平和国家として世界中から注目されるだろうな」
高橋は、湛山の最後の言葉を死ぬまで忘れることが出来なかった。
「高橋君、とにかく日本はアメリカと絶対に戦争をしてはならない。戦争は勝敗に関係なく何も利益をもたらさない。それにアメリカは経済・貿易上、日本にとって一番重要な国なんだから」
大正7年3月25日、次男・和彦が誕生した。湛山は、5つ違いの長男には自分の「湛山」から一字をとって「湛一」と名付けたが、次男には平和主義から「和」の一字をとったのであった。

 


解説
とにかく日本はアメリカと絶対に戦争をしてはならない。戦争は勝敗に関係なく何も利益をもたらさない。それにアメリカは経済・貿易上、日本にとって一番重要な国なんだから

湛山の先見の明には驚くばかりです。
しかも、その平和主義はイデオロギーからくるものではなく、実利から来るものでした。


〈我等は曖昧な道徳家であつてはならぬ、徹底した功利主義者でなければならぬ〉

と湛山は説きました。


私は、別のところ(獅子風蓮の夏空ブログ)で、こんな記事を書いたことがあります。

損得勘定、いけませんか? その4(2023-03-14)

ここまで損得勘定の話をしたのですが、大切なのは……
1)まず行動を起こすときに損得勘定をし、
2)できるだけ先のことを考える。 そして、
3)損得が明らかになったときに断固としてそれを実行する勇気を持つということです。
1番目はいろいろな本に書いてあるし、早い話が功利主義の考え方ですから周知のことと思うのですが2番目と3番目は私のオリジナルの考えを付け加えました。
この三つをそろえて一つの考え方になるのではないかと思いまして、ひそかに名前をつけました。
養老先生が「唯脳論」を出していますけれども、私は「唯利論」とつけました。


私の「唯利論」は、湛山のプラグマティズムに通じるところが少なくありません。

 

 

獅子風蓮