獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「地の塩」その27)ドイツ人捕虜たちがベートーベン第九を演奏

2024-07-10 01:07:07 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt48 - 第九 初演100周年

12月24日 投稿
友岡雅弥


福島県というと、日本有数の音楽どころです。合唱やオーケストラは、全日本コンクールの優勝常連校が複数あります。

高校野球の入場マーチ「栄冠は君に輝く」、東京オリンピックの入場行進曲、阪神タイガースの「六甲おろし」、読売巨人軍の「闘魂こめて」、映画「君の名は」のテーマソング、また「モスラの歌」などで有名な古関裕而さんは、福島市の出身。太平洋戦争中は、たくさんの軍歌を作ったので、残念といえば、残念ですが、戦後は「長崎の鐘」や戦争孤児の施設をとりあげた「とんがり帽子」「ひめゆりの塔」などの曲もあります。

福島駅東口には、古関裕而さんがハモンドオルガン弾いてるモニュメントがあります。

また、郡山市は「楽都」、「日本のウィーン」と呼ばれています。もともとは、戦後の復興期に土木事業を盛んに行われ、復興のどさくさで、悪徳手配師などが東京から流入(これは、今の原発除染事業も変わらないところです。福島の問題ではなく、日本社会の問題です)。荒廃した雰囲気が漂いました。

そこで、郡山市民は「10万人のコーラス運動」を立ち上げ、さらにそれが実現したので「20万人のコーラス運動」をおこしたのです。
ちなみに、日本初のロックフェスティバルも郡山なんですよ。オノ・ヨーコが来ました。

私も支援させていただいている相馬子どもオーケストラは、日本で唯一の「エルシステマ」による活動です。「エルシステマ」は、ベネズエラのストリートチルドレン、 スラムの子どもたちを支援する活動で、今や世界に広がり、世界ナンバーワンの若手指揮者グスタホ・ドゥダメルもこの運動の出身です。


エルシステマについては
http://www.elsistemajapan.org/worldwide


東日本大震災、原発事故の復興の一つの象徴として、エルシステマが選ばれ、オーケストラが選ばれたのは、福島らしです。もともと小学校、中学校の多くに、吹奏楽だけでなく、管弦楽オーケストラがあったのが、地元福島の強みでした。

さて、9月23日、ベートーベンの第九交響曲アジア初演100周年のコンサートが会津若松の歴史あるコンサートホール「會津風雅堂」で開かれます。

なぜ、アジア初演(ということは、当然、日本初演)100年コンサートが、福島の会津若松で開催されるかです。

実は、その前日、9月22日、会津若松に「松江豊寿(とよひさ)記念碑」が建ちます。この松江豊寿さんが、日本で(アジアで)最初の第九演奏と関係あるのです。

豊寿さんは、1872年(明治5年)に会津若松で生まれました。
ご存知のように、会津藩を初めとする東北諸藩は、戊辰戦争で「朝敵(天皇の敵)」として、政府軍から攻められ、悲劇的、屈辱的なあつかいを受けました。ほとんどの藩士は、自宅軟禁状態で、さらに青森の北の端に移住させられ、飢餓で多くの死者をだしたりしたのです。

豊寿さんの父親は、会津藩士でしたが、警察官になっているので、おそらく斗南藩移住はなかったのでしょう。しかし、少年時代の記憶に、「朝敵」として差別されたことは、深く刻まれていたと思います。

武士の家に生まれたので、農業や商業の経験は家としてはなく、巡査や兵隊以外の仕事は難しい。そして明治となり、徴兵令により国民に兵役の義務が生じて行く時代です。ある意味、兵隊になれば、差別もそんなにないとは言えます。

豊寿さんは、幼年学校から士官学校へと進み、日清・日露戦争に従軍し、陸軍中佐となります。

第一次世界大戦で、ドイツが負け、中国にいたドイツ人たちは捕虜として日本の収容所に収容されることとなりました。

約千名のドイツ人が、徳島にあった板東俘虜収容所に収容されました。そして、豊寿さんはここの所長となったのです。

この収容所は、豊寿さんの意向が色濃く反映したものでした。運動場のほか、ドイツでの生活を続けられるようにと、農園、牧場、ビール醸造所、パン屋さんまであったのです。

これだけではありません。近隣住民との交流も盛んに行い、入所者が作ったパンや手工業製品が販売されたり、入所者が近隣住民に、ドイツの文化を教えたりしました。

これが当時の日本でどれほど開明的であったかは、いうまでもないでしょう。日本に来たのだから、日本の文化を学べではなく、ドイツから来た人達にドイツの文化を教えてもらおう、という態度です。

オーケストラもありました。

そして、1918年6月1日。
ドイツ人捕虜たちが、ベートーベンの第九を演奏しました。これが、100年前のアジア初演なのです。

収容所の跡地は、ドイツ村公園となっています。

残念ながら、捕虜への人道的な扱いは、それ以降の日本軍には継承されませんでした。

このような画期的な、取り組をしたのが、「朝敵」として差別された会津出身者であったということは、こころに刻んでおいたほうが、いいのではないか、と思ったりします。

 

 

 


解説
この収容所は、豊寿さんの意向が色濃く反映したものでした。運動場のほか、ドイツでの生活を続けられるようにと、農園、牧場、ビール醸造所、パン屋さんまであったのです。
これだけではありません。近隣住民との交流も盛んに行い、入所者が作ったパンや手工業製品が販売されたり、入所者が近隣住民に、ドイツの文化を教えたりしました。
これが当時の日本でどれほど開明的であったかは、いうまでもないでしょう。日本に来たのだから、日本の文化を学べではなく、ドイツから来た人達にドイツの文化を教えてもらおう、という態度です。

いい話ですね。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 

獅子風蓮