石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
■第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第4章 東洋経済新報
(つづきです)
連隊から戻った湛山を待っていたのは、田中穂積からの手紙であった。それは、『東洋経済新報』という経済専門の旬刊雑誌があるが入社しないか、という内容だった。
田中は、自分に殉ずる形で東京毎日新聞社を辞職した湛山の面倒を何とか見なければ、と気にかけていたのであった。
「経済新報か。しかし、僕は経済は全くの門外漢だからなあ」
湛山に経済関係の雑誌で仕事をやっていける自信はなかった。
「いや、最初から経済関係一本槍ということではなさそうなんだよ」
田中は、挨拶に訪れた湛山の杞憂を晴らそうとして、そんなふうに説明した。
「今度、新報は経済ばかりではなく政治、文化、社会、教育など広い層を対象にした新しい月刊雑誌を出したんだが、その雑誌のための編集記者が不足でね。人を探していると聞いたものだから、即座に君のことを思い出してね」
「お心にかけて頂いて本当にありがとうございます」
「新報の副主幹格である三浦さん、……三浦銕太郎さんから、誰か適当な人物はいないものかと尋ねられてね。君は『東京毎日』でも優秀だったからね。その後の『太陽』など一流誌での論文も見ているが、キレがいい。そんなことで早速三浦さんに推薦した次第なんだ。まあ、この紹介状を持って三浦さんを訪ねるといい」
湛山は、田中に押し切られる形で新報社に三浦を訪ねることにした。
「そうそう、三浦さんは早稲田の出身だよ。訪ねる時には、何か書いたものを持って行ったほうがいいだろうな」
湛山は12月の中頃、 三浦銕太郎の面接を受けた。田中から言われたとおりに論文も持参した。
「何を書いてきたんだね?」
「はい。福沢諭吉論を持参しました」
「福沢さん? 君はあの人をどう捉えているのかな?」
「はい。合理性を備えた文明批評家として尊敬しております」
「分かった。ともかく論文を読ませてもらおう。採用か否かは後日連絡します」
明治44年(1911)1月、26歳の湛山は東洋経済新報社の編集部員として勤務することになった。早稲田大学を卒業して以来、4つめの仕事であった。
「石橋、今度こそ落ち着けよ。これで駄目なら根なし草になるくらいの覚悟でな」
関や大杉が、変な激励の仕方をした。
湛山は牛込天神町六番地にあった東洋経済新報社に通った。住んでいるのは大学時代からの牛込早稲田にあった早稲田館だったから、通勤には便利だった。
有名な矢来の交番の筋向かいで、牛込見付から神楽坂を上り、真っすぐに早稲田方面に通じる道路に面していた。
東洋経済新報社は、日清戦争が終わって半年後の明治28年11月、イギリス留学から戻ったばかりの町田忠治によって創設された。町田は、元々「報知新聞」の記者であった。イギリス留学中に『エコノミスト』、『ステチスト』を知って、これを模範とした経済中心の旬刊雑誌を創ろうと思い立った。読者対象は、経済人、社会人、大学生などいわゆるインテリと呼ばれる層であった。町田は、しかし創刊して2年足らずで日本銀行に転じた。その後政界入りして農林大臣、商工大臣、民政党総裁などを歴任する。
町田の後任には、大隈重信の推薦で早稲田大学教授の天野為之が選ばれた。天野は後に早稲田大学学長になる。
この天野時代に東洋経済新報社は、イギリス流の自由主義、合理主義、経験主義という伝統や、反藩閥、反軍閥という社風を確立した。編集の方針は経済的自由主義であった。
天野引退の後を継いだ三代目主幹の植松考昭は、政治・社会方面の評論を得意として、選挙権の拡張、政党内閣制度の確立、労働法制定などを主張していた。植松は、経済専門誌ながら政治・社会領域をも視野に入れて論陣を張った。植松はより鮮明に、政治的自由主義の色彩を加えたのであった。
こうした主幹・植松の方針を受けて副主幹格の三浦は、徹底した自由主義、民主主義、平和主義という『東洋経済新報』の基盤を確立した。発行部数も、当初三千部ほどであったものが五千部に増えている。
そして世の中が変動している時期だからこそ新しい視点で経済・政治・社会・思想問題を中心に論じたい、として雑誌 『東洋時論』を創刊した。 その新報社変わり目の時期に湛山は入社したのであった。
「石橋君、分かっていると思うが君には『東洋経済新報』のほうではなくて、新雑誌の『東洋時論』をやってもらう。だが、新報も時論も、社の大事な看板だから、君独自の鋭い見方で読者に訴えてくれたまえ」
三浦銕太郎はそう言って湛山を励ました。
「月給は18円だ。ま、大卒の銀行員で40円近くも貰っていることを考えれば、少し少なすぎる気はするが、初任給だ。試用員でもある。もうしばらく経ったら上のほうに僕からも話すから、我慢してやってくれたまえ」
湛山は、東京毎日では20円の月給を貰っていた。それに10円の車代が付いた。今度は18円だという。湛山は、日雇いでも50銭、それから考えると、自分の月給は日雇いに毛の生えた程度のものだな、と苦笑いした。
「独り者だし、何とか食ってゆけるだろう。無職でいるよりはずっとありがたい」
そう自分に言い聞かせた。
新報社の建物はペンキ塗りの木造二階の洋館であった。道路に沿って門があり、入り口には左右に一本ずつ桜と梅の古木が立っている。
「桜は人間の寿命とほぼ一緒だというが、この桜は何と見事な古木だろうか。百年、いや二百年は経っているな」
春にはどちらも見事な花をつけるので、ここで花見が出来る、と聞かされた。
玄関を入ると、そこが営業の部屋で、その奥に食堂と台所、小使い室があった。食堂といっても賄いがいてご飯を作ってくれるわけではない。各自が持参した弁当を昼食時に、ここで雑談しながら食べるのであった。
「二階が編集室と会議室を兼ねた応接室だ。応接室からは小石川台が見下ろせる。新報と時論の双方の編集室を兼ねているんだ」
三浦が丁寧に説明してくれた。『東洋経済新報』は、毎月3回、5の日に発行されていた。「君も知っていると思うが、編集は新報と時論を発行するだけではないんだよ。今進められているのは「明治金融史」と「明治財政史」の2冊だ。どちらもかなりの大著だ。こういう本も必要とあれば作るんだよ」
会社は、植松、三浦のほかに営業担当の松下知陽が幹部社員であった。ほかには編集が新入社員の湛山を含めて七人、営業が三人、住み込みの小使いさん夫婦と給仕二人。合わせて17人という 少人数の陣容であった。
湛山が三浦に誘われて編集室に入っていくと、ちょうどみんな出払っていて、一人だけ初老に近い男がストーブにあたっていた。
「一人ですか?」
「ええ、みんな外に出てますが」
「そうか、じゃああなたから紹介しておきます。今度、時論を手伝ってくれることになった石橋湛山君。いろいろ教えてやってください」
湛山が、軽く頭を下げて名乗ると、
「片山です。よろしく」
ぶっきらぼうな挨拶だが、だからといって他人を拒否しようという感じではなかった。
「片山潜さんだ。ここでは『深甫』という筆名を使っている。演劇、音楽、美術、建築批評、それに社会問題にもふれた論文を書いているんだ」
湛山は「片山潜」と聞いて、耳を疑った。
「あ、あの社会主義運動の?」
「ええ」
「石橋です。よろしくお願いします」
(つづく)
【解説】
軍隊から戻って、湛山はようやく東洋経済新報で働くことになります。
そこには、あの社会主義者の片山潜がいました。
獅子風蓮