獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その36)

2024-07-16 01:44:11 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第5章 小日本主義

(つづきです)

4月になると、湛山夫妻は牛込区原町の一戸建ての借家に移った。梅子が勤めを辞めたからであった。
「ねえ、ここは瓦斯灯じゃあないのね」
「うん、ごらん、電灯というやつはこんなに明るかったんだ」
会社ではもちろん電灯の下で仕事をやってきたのだが、こうやって自宅に電灯が引けると、その明るさは予想以上であった。
「今度、僕が提案した『東洋経済新報』の文体の変更が7月5日号からなんだ。これまでの、候文、つまり文語体というんだが、それをやめて今こうしてしゃべっているのと同じ口語体にすれば、ずっと文章が分かりやすくなって、読者も増えるだろうってね」
「そうすれば、給料も増える?」
「そいつは約束できないなあ」
二人は顔を見合わせて大声で笑った。
梅子が願った湛山の給料の値上げは後1年待たなければならないが、それでも幸せであった。

この年の社外の出来事としては、7月に島村抱月が坪内逍遥の文芸協会と訣別して劇団芸術座を設立した。湛山も中村星湖や相馬御風、正宗白鳥らとともにその設立に力を貸した。湛山にとっては「小さな恩返し」であった。
8月には長男の湛一が誕生する。
「不思議なことだなあ。分身が生まれるという感情は、これまでに味わったことのない気持ちだ。自分では落ち着いているつもりだが、妙に興奮している。男でも女でもどちらでもいい。無事に生まれてくれさえすれば」
出産と聞いて駆けつけてくれた母親に、湛山はそんなことを言って、自分の気持ちを説明してみせた。
「生まれた子供は湛一。湛山の初めの子供だから。僕のように長男なのに省三なんて名付けられたら、後で本人が戸惑うかもしれないからな」
湛山は梅子をいたわりながら、父親になった喜びを伝えた。
湛一は後に早稲田大学政治経済学部を卒業して、三菱銀行に入行する。いくつかの支店長、部長を経て三菱瓦斯化学株式会社常任監査役や立正大学理事などを歴任することになる。
この年の11月には雑司ヶ谷亀原に移転する。親友の一人である植原悦二郎が住んでいた家だったが、植原が引っ越すことになったのでどうか、と勧められたものであった。この後も湛山は移転を繰り返す。
湛山は、4月14日の日記に30歳の決意を秘かに記している。
〈将来の行くべき途を考える。結局政界に出ること、そしてその準備として新哲学の樹立につとめることが最も良道であることに考えが落ち着く〉
自分の哲学と思想が人の役に立つとしたら、実践しかない。実践とは政界だろうか、経済界だろうか。悩んでいたのだった。そうした末に出した自分なりの、自分だけの結論が政界であった。それがいつになるかは分からないが、少なくとも「政界」までは現実を直視して歩む。それが湛山のプラグマティズムであり、ビー・アンビシャスであった。
この年の6月、湛山の給料が梅子の希望したように上がった。月給18円から一挙に50円である。半期の賞与として45円も支給された。
「これで日雇い賃金の50銭を、やっと追い越せたよ」
湛山は給料を梅子に手渡しながら、苦笑いした。
「それでも大隈総理大臣の月給千円に比べたら、雀の涙の半分の半分だがね」

(つづく)


解説

待望の長男が生まれ、給料も上がり、湛山のジャーナリストとしての滑り出しは上々です。

 

獅子風蓮