石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
■第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第4章 東洋経済新報
(つづきです)
こうして湛山は、1年に満たない新聞記者生活を終えた。
だが、東京毎日新聞社で見たり、聞いたり、覚えたりしたさまざまなことは、その後の湛山の人生に大きな役割を果たすことになる。
その間に、日本政府は韓国を併合する方針を確認し、10月には元首相・伊藤博文がハルビン駅頭で韓国人・安重根に暗殺される事件が起こった。
国内にも知識人などの間に、社会主義思想が流行り始めていた。
12月1日、以前から決まっていた一年志願兵(後の幹部候補生)として、湛山は麻布竜土町にある歩兵第三連隊に入営した。友人の関与三郎と大杉潤作の二人が兵営まで送ってくれた。
「じゃあ」
こうして1年間の軍隊生活が始まった。
明治43年(1910)11月30日、湛山は軍曹に昇進して歩兵第三連隊を除隊した。除隊した時に湛山は12キロも痩せていた。
「それがね、連隊に入って配属された班に行くと、柔和な顔をした軍曹がいてね。僕が石橋だと名乗ると、腰を屈めて丁寧に自分の名前を言って挨拶をするんだよ」
無事除隊を祝って関や大杉が開いてくれた酒席で、湛山は1年間の軍隊生活を語って聞かせた。
「だって、驚くだろう? 軍隊というところはすべて権柄ずくで、頭っからがんがんやられるものと覚悟していたんだから。けれどもっと驚くことがあった……」
二人は身を乗り出して、湛山の話に耳を傾けた。
「新兵係の少尉が、夕食後に僕を自分の士官室に呼び出したんだ。何事か、と僕はびくびくものでね。入って行くと、将校はにこにこして、こう言うんだ。何かと不自由でしょうね、餅菓子を買いにやらせたからあなたを呼んだんですよ、ってね」
「へえ。聞いていた軍隊生活と違うじゃあないか」
「そのうえ、その少尉は僕に英語を教えてくれないか、と言うんだよ。もちろん僕は承知したんだがね。それからしばらくは、毎晩のように士官室に呼ばれて英語の先生さ」
湛山と一緒に入営した1年志願兵は12、3人いた。そのなかには東京帝国大学を卒業して銀行員になっていた人もいれば、慶応大学出身の人もいた。湛山が最年長ということでもなかった。
「どうして僕だけそんな特別扱い、と言っていいだろうな、扱い方をされるのか、不思議でならなかったんだ」
「ところが半年ばかり経ってやっと分かったんだ」
二人は、盃を口に運ぶのを忘れて湛山の座談に聞き入っていた。
「伍長に昇進した後、別の将校古参の中尉だが、よく飲みに出歩いた人でね、彼が真相を教えてくれたんだ」
「一体、何だったんだ?」
湛山は、もったいぶったわけではなかったが、つい思い出し笑いをしてしまった。
「……でさ、その中尉によると、僕は監視されていたんだとさ」
「監視? 何のために?」
「だから、僕は入営当時はどうも社会主義者ではないか、と疑られていたようなんだ」
「社会主義者? 君がかい?」
二人も大笑いを始めた。周りの客が三人を振り返って覗き込むほどの大笑いだった。
「僕が早稲田の出身で、しかも新聞記者なんかしていたから、こりゃあてっきり社会主義者に違いないって。だから入営する前から僕の処遇については第三連隊の中で、問題になっていたらしい。どこに配属するか、どのように監視するか」
「そういうことか」
「まあ、言われてみれば分かる気はするがね。軍隊では、社会主義もロシアの共産主義も同じものに見えるらしい。その社会主義が軍隊に入り込んで、蔓延したら困る。そう考えたらしいんだ」
「じゃあ、社会主義のお陰で石橋はいい思いをしたということじゃあないか」
「うん。僕も中尉から真相を聞かされた時に、同じことを言って大笑いした」
「もっとも、軍隊のそのやり方は正しいのかもしれないな。現に、君が連隊で厚遇を受けている間に、大逆事件があったしな」
「5月だろ? 幸徳秋水という社会主義者ら26人が捕まった、っていう……」
これは明治天皇暗殺未遂事件に絡むものであった。
「8月には、去年の伊藤公暗殺にもかかわらず、日韓併合を行なう日韓条約が調印されたらしいな。何か日本はおかしい方向に動き始めているような気がしてならないんだ」
「初代の朝鮮総督には寺内正毅が決まったというし」
「僕は、そういうのって違うと思うんだ。本当に朝鮮人たちは併合に納得しているのかねえ」
「石橋、止せ。こんな場所でそんな話をするなよ。今度こそ本当に間違われるぞ」
大杉が、首を引っ込めるようにして周囲を見回した。
「構わないさ。言論は自由。それに僕は社会主義者ではない」
そう言ってから湛山は、再び連隊での感想を二人に聞かせた。その前に、と湛山は盃ではなく、コップを取って徳利からなみなみとその中に酒を注いだ。
「石橋、ずいぶん酒が強くなったんだなあ」
「うん。さっきも話したように、将校連中にはよく飲みに連れて行ってもらったもの」
湛山の面白さは、軍隊を「社会の縮図」、「一種の教育機関」と見做したところである。そう思って観察すると、軍隊のプラス面が湛山には見えてきたという。
「しかし、本来の戦争目的には嫌悪の情しか感じないがね」
湛山が連隊で経験した一番嫌だったことは、富士山の麓での実弾訓練であった。兵隊の姿をかたどった等身大の標的を前方のかなり離れた場所に置いて、これを鉄砲で撃つ訓練だが、湛山には耐えられないものであった。
「もちろん、向こうから弾は飛んでは来ないがね。一度標的の下にある看視壕に入ってみたんだよ。射撃してくる小銃弾はわずかに千発くらいだったんだが、それが壕の上を唸って通過していく。弾によっては近くにある樹木なんかに当たってはね返るのもあってね、あれを聞いていたらちびりそうになったくらい、身の毛がよだつ恐ろしさだったよ。戦地に連れて行かれても、僕はとても戦争なんかできない、と悟ったね」
以後、湛山が一貫して戦争反対論を唱えるようになる根底には、この時の実弾訓練の恐怖の実感が強く影響していたのである。
のちに湛山は見習い士官として3ヶ月の再召集を受けて、これを無事に勤務して終末試験もいい成績で通過した。そして大正2年になってから少尉に任官辞令を貰うことになる。
(つづく)
【解説】
湛山が東洋経済新報で働くまでには、まだまだ紆余曲折がありそうです。
獅子風蓮