獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

村木厚子『私は負けない』第一部第1章 その5

2023-04-11 01:27:41 | 冤罪

このたび、村木厚子さんの著書『私は負けない-「郵便不正事件」はこうして作られた』(中央公論新社、2013.10)を読み、検察のひどいやり方に激しい憤りを感じました。
是非、広く読んでほしい内容だと思い、著書の一部を紹介したいと思います。

(目次)
□はじめに
第一部
■第1章 まさかの逮捕と20日間の取り調べ
□第2章 164日間の勾留
□第3章 裁判で明らかにされた真相
□第4章 無罪判決、そして……
□終 章 信じられる司法制度を作るために
第二部
・第1章 支え合って進もう
  ◎夫・村木太郎インタビュー
・第2章 ウソの調書はこうして作られた
  ◎上村勉×村木厚子対談(進行…江川紹子)
・第3章 一人の無辜を罰するなかれ
  ◎周防正行監督インタビュー
・おわりに


証拠よりもストーリー

検察のストーリーは、当初、客観的事実とはまったく異なる前提で作られていました。証明書の偽造を指示した動機として、私が企画課長時代に担当した障害者自立支援法案があった、というのです。法案を国会ですんなり通すため、野党の議員にも気を遣い、民主党の石井議員の要請に応じて役人が違法な行為をやった、という構図です。
しかし実際は、証明書が作られた04年6月当時、まだ法案は影も形もありませんでした。この法案は、次のような経緯で出来上がりました。
03年4月に新たな支援費制度が始まりました。障害者自身が自分の受ける福祉サービスを選んだり決めたりできる利用者本位の制度で、使い勝手がよく、非常に評判がよかったのですが、たちまち財源が底をついてしまいました。省内の他の分野で節約をしたり、経費を圧縮して回してもらい、なんとかしのいだのですが、このままの制度を続けられないことは明らかでした。それで、障害者団体にも現状認識を共有してもらい、一緒に議論を重ねて新しい方向を作っていこうということで、初めて会議を開いたのが、04年4月30日です。グランドデザインができたのが10月、法案ができたのは、05年1月に始まる通常国会の直前でした。検察のストーリーでは、倉沢さんが最初に私のところに来られたのは、04年2月ということですが、この時点で、私が法案成立のために、国会議員からの無理な頼みを引き受けた、ということはありえないのです。
それなのに、こともあろうに、04年2月には障害者自立支援法案を巡って国会議員に必死に根回しをしていた、という内容の厚労省職員の調書がいくつも作成されていました。私は、遠藤検事の取り調べの時に、この法案の成立過程を聞かれたので、経緯を説明し、「インターネットで厚労省のホームページに入って、社会保障審議会の障害者部会の議事録を見れば、経緯がよく分かりますから」と教えました。彼はしばらく経ってから、「勉強してだいぶ分かってきました」と言って、障害者自立支援法成立の経緯について改めて調書を取りました。
検察というところは、客観情報よりも調書を重んじる文化があるようで、この調書ができて初めて、「ああ自立支援法は違うのか」というのが分かってきたようです。そうすると、これまでの厚労省職員の調書が間違いになってしまいます。それで、彼らは慌てて関係者の調書を取り直しました。その結果、客観的事実との齟齬はなくなったのですが、今度は、私が違法な行為を敢えて行う動機がなくなってしまったのです。
遠藤検事も國井検事も、手帳や業務日誌に書いてある私の行動について、一つひとつ聞いてきました。20日間の取り調べの中で、もっとも時間を費やしたのがこの点でした。特に、04年2月と3月については、休暇簿や出張の旅行命令なども付き合わせて、細かく調べたようで、「出勤簿なんかと照らし合わせたのですが、正確ですねえ」と言われました。最初は事実関係を確認していると思っていたのですが、途中から、いつなら倉沢氏と会う可能性があるのか、私にアリバイがない時間帯はいつかを探しているということに気づきました。
手帳や日誌を見れば、議員からの依頼事項やそれをどのように処理したのかが全部書いてあります。それを見れば、石井議員や倉沢氏の名前が出ていないことも分かるし、与党の議員からの「ここに補助金をつけてくれ」という依頼を断ったことなども出てきます。補助金がついたかどうかは、裏付けもとれるはずです。そういう対応を続けてきた私が、なぜ野党の議員からの無理な頼みを聞かなければならないのでしょうか。
こういう証拠を見ても、検察は、もしかしたら被疑者の言っていることが本当かもしれない、と考え直すことがないのです。あらゆる証拠は、もっぱら検察のストーリーを裏付けるために使えるか使えないか、という観点で検討され、ストーリーに合わないものは無視されていきました。
勾留満期まであと5日という夜、國井検事が「村木さんには大変ショックなお知らせがあります」と言ってきました。
「起訴を決めました。検事総長まで内諾を得ています」とのことでした。
この時には、すでに私を信じてくださる方たちが、支援する会を作ろうとして動き始めていました。國井検事からは、そのことについて、こう告げられました。
「支援する会ができるようだが、裁判になれば、そうした人たちを巻き込むことになる。否認していると、厳しい刑、実刑を受けることになるが、それでもいいのか」
その後も、國井検事からは、「裁判のことを心配している」と繰り返し言われました。また「弁護士の中には無罪を安請け合いしたり、だます人もいる」とも言われました。否認し続ければ重い刑になるから考え直せ、というわけです。
そして勾留満期の09年7月4日、私は虚偽有印公文書作成・同行使の罪で起訴されたのです。
取り調べは終わりました。拘置所の部屋の壁にはられたカレンダーを見つめながら、「一日終わった」「二日終わった」「(勾留期間の)半分終わった」「あと○日……」と数える日々、本当に壁に穴があくのではと心配する日々でした。精神的にはたしかにきつかったけれど、逮捕されてからも食欲が落ちず、睡眠もちゃんととれていたので、なんとかもったのだと思います。この日の日記には、こう書いてあります。
〈20日間、結果はどうあれ、よくがんばった!! ほめてやろう〉

 


解説
こういう証拠を見ても、検察は、もしかしたら被疑者の言っていることが本当かもしれない、と考え直すことがないのです。あらゆる証拠は、もっぱら検察のストーリーを裏付けるために使えるか使えないか、という観点で検討され、ストーリーに合わないものは無視されていきました。

医者も患者の病状の見立てを誤ることがあります。
当初の誤った見立てに固執して処置が遅くなれば、患者が死んでしまうことがあります。
早い時期で、医者は診断の誤りを認め、正しい診断を下すべくデータを集めたり、専門医の意見を求めたりします。
自分たちの立てた最初のストーリーに固執する検察官は、医者だったらやぶ医者ですね。
患者を死なせてしまいます。
医者は責任を問われますが、検察官個人が責任を問われることはありません。
おかしな組織です。

獅子風蓮



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