石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第6章 父と子
(つづきです)
湛山はこんな歌を作っている。
此の戦 如何に終るも 汝が死をば
父が代りて 国の為め生かさん
戦後、公職追放に遭った時に湛山が書いた書簡がある。これを読んだ経済学者の大熊信行を号泣させたという書簡である。
〈私は昭和19年2月一人の男児をケゼリン島に於て戦死せしめた(中略)1年遅れてその公報を受けた私は、昭和20年2月彼のために追弔の会合を催したが、その席上で次の如く述べた。「私はかねて自由主義者であるために軍部及びその一味の者から迫害を受け、東洋経済新報もつねに風前の灯のごとき危険にさらされている。しかしその私が今や一人の愛児を軍隊に捧げて殺した。私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではないからである」と。私も、私の死んだ子も、戦争には反対であった。しかしそうだからとて、もし私にして子供を軍隊にさし出すことを拒んだら、恐らく子供も私も刑罰に処せられ、殺されたであろう。諸君はそこまで私が頑張らなければ、私を戦争支持者と見なされるだろうか。東洋経済新報に対し帝国主義を支持した等と判決を下されるのは、正にそれであると私は考える〉
書簡のなかの「私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではない」は、湛山の絶唱でもある。
この時期の湛山について、清沢はその日記(後に「暗黒日記」として出版)の4月3日に書いた。
〈日本人は戦争に信仰を有していた。日支事変以来、僕の周囲のインテリ層さえ、ことごとく戦争論者であった。(中略)これに心から反対したものは、石橋湛山、馬場恒吾ぐらいのものではなかっかと思う〉
7月7日にサイパン島守備隊が全滅した。
その11日後、東条内閣が総辞職し、代わって小磯国昭内閣が誕生した。
清沢は湛山の依頼で東洋経済新報社の評議員になっていた。毎週月曜日の評議員会には必ず出席する。その日の話題の要旨を日記に書き記しているが、戦争中の言論弾圧とスパイ横行の中での東洋経済新報の評議員会について、こう記す。
〈自由に話しうるのはこの会くらいのものである。他では2、3人の会でも断じて正直は言わぬ。そこには常にスパイがいるからである〉
(つづく)
【解説】
戦時下、言論統制の暗い世相が湛山を苦しめます。
獅子風蓮