獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その42)

2024-08-08 01:53:15 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第6章 父と子

大正8年(1919)の1月早々、子供たちが風邪を引いた。腺病体質だった子供たちの健康回復のために、湛山は鎌倉に転居させることにした。間もなく梅子と子供の4人は長谷観音前に移って、さらに海岸通りの一軒家に移った。

3月には、東京・日比谷で普通選挙要求の日本最初のデモがあった。しかも参加者3万人という大デモンストレーションであった。湛山はこの先頭に立って行進するほどの指導者的な役割を果たしたのであった。
さらに5月には朝鮮で「三・一独立運動」が起きた。日本帝国の支配から逃れたいとする朝鮮人たちが、母国の朝鮮で決起した民衆運動であった。
「あれを暴動として鎮圧したことが、日本のためにも朝鮮のためにも、決してよいことではなかったと、僕は思うよ」

〈凡そ如何なる民族と雖、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来殆どない。(中略)朝鮮人も一民族である。彼等は彼等の特殊なる言語をもつて居る。多年彼等の独立の歴史をもつて居る。衷心から日本の属国たるを喜ぶ朝鮮人は恐らく一人もなからう〉

湛山は、朝鮮と日本の関係を、個人の場合に置き換えて『東洋経済新報』に述べた。
「つまり、誰だって自分の家に隣の人間がやってきて、今日からこの家とおまえたちは俺の管理下に置くから、と言って服従させて、それに反抗したら暴力で圧するというのは理不尽なことだと思うだろう?」
だが、湛山のこうした主張は哀しいかな、軍国の道を突き進む日本及び日本人にとっては「戯言を言う」少数派にすぎなかった。
編集会議での湛山は、文章がうまい下手は問わずに、記者全員が平等に意見を言える場を作った。ここでは誰もが対等に議論に参加できた。その議論の中から、疑問が湧いてきたり、逆に答えが見出せたりした。ほとんどの編集方針はここで決定されていった。ここでは湛山の言う「言論の自由」が十分に保障されていた。

当時の東洋経済新報社のことを、高橋の2年後輩の赤松克麿が、こう書き残している。

〈三浦さんは温厚な紳士であったが、石橋さんは頭の鋭いキビキビした神経をもった論客であった。高橋亀吉君もなかなかの論客で、よく石橋さんと口角泡を飛ばして激論を交えているのを聞いたものだ。若い記者諸君はみな真面目で忠実に働き、よく勉強もした〉

社内の空気は常に自由で活発な言論に支えられて、どこか学究的なものであった。経営も堅実に回っていた。「ここは東洋経済大学だ」と言う社員もいたほどである。

(つづく)


解説

「つまり、誰だって自分の家に隣の人間がやってきて、今日からこの家とおまえたちは俺の管理下に置くから、と言って服従させて、それに反抗したら暴力で圧するというのは理不尽なことだと思うだろう?」

湛山のこの言葉は、今読むと正論ですが、当時は見向きもされなかったようです。

 


獅子風蓮