獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの講演:大聖人は「血脈」否定論者だった(8)

2023-09-06 01:36:26 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
友岡 雅弥講演(1)(August 24,2006)

読みやすいように、まとめられるものは整理して再構成しました。
明らかな誤字脱字は訂正しました。

 


■友岡 雅弥氏(東洋哲学研究所・研究員)の講演内容(要約)
■日付/1994(平成6)年
■会合名/不明

 「大聖人は「血脈」否定論者だった」


(つづきです)

戒名の話です。奴らは言うんですね。
『日蓮大聖人も戒名を書いてるぞ』。
書いているけど書いていない、ですよ。

『創価学会の名誉役職もいっしょやないか』とか。(笑)
全然違います、今の死んでから付ける戒名は、値段によって位が違う。(笑)
お金によって信心に関係なく上下を決めるのんと、草々の頃から、本当にがんばった人を「名誉地区部長」とかにするのとは。
本質を見誤ってるんですよ。


また奴らは言います、『戸田城聖にも、池田大作の母親にも戒名付いているやないか』。
『おおそうや、』と思てびっくりしてる人がおるんですよ。
これはおかしいでしょ。
『付いているやないか』じゃないんですよ、『おまえらが付けたんやないか!』ですね。
勝手に戒名付いた位牌持って来てね、こっちは戒名代も払ってませんよ。
勝手に自分らでやっておいて。

だからと言ってね、昔ね、『おじいさんに戒名付けてもうた』、
これはこれでええんですやん。
『ええ戒名付けてもうた』と執着せずに、これは一つ高い授業料払ろたけど、
もう絶対騙されへんぞと思たら「変毒為薬」の薬になるわけです。

やっと我々は大聖人の仏法がすごいなと思いながら信心できるようになったんです。
やっと言えるようになったんです。
だから大白も聖教も徐々に変えていってます。
徐々にしか出来ませんけど。勿論、嘘は言いませんけど、もう奴らの手は入りません。
そのまま書けるんですから。

ほんまに5、6年前、ぼくのは、いっぱい書き直されましたよ。
大聖人が、人間として、人に愛情を注いでいる部分は、できるだけ消されました。
今は大聖人はこういうふうに人とこんなふうにやったんと書けるんです。
よかったですよ。


実は盆も彼岸も先祖供養するような儀式じゃないんです。
もともと「彼岸」というのは、「仏界」の事です。
我々の心の中にある「仏界」の事なんです。
それが日本では、「お彼岸の日」といって特定の日になってしまっている。
「盆」も、「ウランバーナ」ていう言葉を「盂蘭盆」としたんですけど。
「地獄界」の事です、我々の心の中の地獄の生命です。
それが日本では、特別な日になってしまっている。

先祖供養したいんですって来た人もおりました。
大聖人の頃にも、みんな特別な日に先祖供養するものと思っていた。
大聖人は言うんですよ。
故人を思う気持ちは大事です、それを大切にするんです。
つまり、故人を思い出して、そっからですよ、そっから先祖供養とか祈祷とかやったら、他の宗教になってしまうわけです。
自分が頑張らなあかんなと思う、そして世界広布を誓う、一切衆生を救うと誓いなさい、と大聖人は仰っている。

途中までいっしょでも天地雲泥の差なんです。
そういうことなんです。

大聖人が法難も顧みず、名も無き人に最高の名前を付けていった、こんな素晴らしいお振る舞いを、彼らは自分等の付ける戒名といっしょや、と言ってるんです。
だから我々は許せないんですよね。
我々は聖教新聞でもどんどん大聖人のすごさを語って行きたいと思っています。
それを他の世間の人は、横で見て、『仲間割れしてるー、』とかね。

仲間と違う!て言うんですよ。大聖人の顔に泥塗ってるんですよ。
自らの命をかけて、信徒を大切に大切に守ってきたこの人の人生を、すべて泥塗ったんですよ。
オカルト宗教にしてしまった。
それを仲間われと言うのは仲間と思っているという事です。
大聖人とあの人が仲間、同じ事言ってると思っているです。
違うんです。全然違う事を言ってる。
これを見抜かなあきません。

(おわり)

 


解説
「奴ら」とは宗門側の人間を指しているのでしょう。
あまり上品な言い方ではないですね。
なにしろ創価学会が宗門とバトルを展開していた時の言説ですからね。

戒名の話です。
他の宗派では、高額の布施をして位の高い戒名をいただく、ということは実際にあることで、世間でも批判されています。

でも、創価学会が日蓮正宗と別れる前は、「日蓮正宗は他宗教とは違い高額の布施を要求されない」と誇らしげに言っていたような気がするのですが。
また、死後、戒名を付けてもらいお盆やお彼岸に寺院で亡くなった親族を供養できることは、
「自分たちは新興宗教ではなく伝統ある宗教の信徒なのだ」
と自慢できることでもありました。

友岡さんのような仏教に詳しい方が、戒名や先祖供養を原理的に批判するのは、対宗門とのバトルを勝ち抜くためには有効かもしれませんが、一般の素朴な会員の宗教心にはそぐわないものだったような気がします。
それを無理やり何年もかかってごり押しした結果が、いまの沈滞した創価学会を作ったのではないでしょうか。

仏法の原理からすれば、戒名などいらないという論理は理解できます。
しかし、日本人が長い歴史の中で、先祖を大切にし、そのツールとして戒名や供養の儀式が使われてきたのなら、それらを尊重したいと思います。

 

獅子風蓮



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