獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの講演:大聖人は「血脈」否定論者だった(7)

2023-09-05 01:20:55 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
友岡 雅弥講演(1)(August 24,2006)

読みやすいように、まとめられるものは整理して再構成しました。
明らかな誤字脱字は訂正しました。

 


■友岡 雅弥氏(東洋哲学研究所・研究員)の講演内容(要約)
■日付/1994(平成6)年
■会合名/不明

 「大聖人は「血脈」否定論者だった」


(つづきです)

「霊山浄土」。

霊山と言うのは霊鷲山、現実にインドに今でもある山で、釈迦が最後の8年間法を説いた、
釈迦の血と汗と涙が滲んでる、そいうふうな努力の跡です。
そんなどこにあるか分からない桃源郷と違って、本当にある山で、娑婆世界の象徴です。
だから大聖人が「霊山浄土」とぽーんと手紙に書いたときに、鎌倉時代の信徒は驚いたんですね。
『普通、浄土て言うたら、死んで行く所なのに。大聖人は、また娑婆世界に生まれて来るって書いてあるぞ』って。

で奴らまたこれを利用するんですよ。
霊山ていうのは霊魂の霊て書いてあるので、『だから霊魂が行く所なので先祖供養しなさい』と。
先祖供養しないのが仏教ですからね。
しないんですよ。やったらあかんのですよ。生まれて来てるからですよ。
そうでしょ、先祖がぷかぷか浮いているっていうのは他の宗教です。
だからといって亡くなった人を忘れてしまいなさいとかそんなことを言ってるんやないんです。
むしろ、『死んだら全部仏さんやっ』と思う方が、故人の人柄やとかそんなんを、ないがしろにしてるんです。

人間として生きたんですよ。
立派に生きた人も、最後の最後まで妙法を知らずに残念な死に方された人も、その人達の喜怒哀楽を人間として受けとめて行く。
そしてもうどっかに生まれて来てるから、その人達に追善の回向をしよう、これが仏教ですわ。

五座の御祈念も、牧口先生、戸田先生の霊魂に祈祷しているんと違うんです。
牧口先生、戸田先生の死身弘法の姿を思い出して感謝して、感謝するっていうことは、自分もがんばろうと思うことです。
もうどっかに生まれて来てる自分の先祖に追善の回向をして、一切衆生を救い、幸せにしていく事を決意するんです。
仏前で決意をする崇高な勤行になってるんです。
これが仏教なんです。
我々の「彼岸大法要」もそうですわ。
そこに広宣流布を誓うていうことが無かったら他の宗教になってしまう。

 

 

(つづく)

 


解説
大聖人が仰った「霊山浄土」という言葉は、素直にとれば、日蓮仏法の信徒が死後に赴く清らかな世界ということでいいのではないでしょうか。


『人間革命』には、戸田先生がそのような意味で使っておられました。
たとえば、
●第1巻「黎明」の章
「妻と子よ、汝らは、国外の兵の銃剣に倒れるかもしれない。国外の兵に屈辱されるかもしれない。しかし、妙法の信者・戸田城聖の妻として、また子として名乗り、縁ある者として、霊鷲山会に詣でて、大聖人にお目通りせよ。必ず、厚くおもてなしを受けるであろう」

●第2巻「序曲」の章
「私も、後を追って巣鴨にまいりましたが、あなたはご老体ゆえ、どうか一日も早く世間へ帰られますようにと、朝夕、御本尊様に、お祈りいたしました。が、私の信心いまだ足らず、また仏慧の広大無辺にもやあらん、昭和二十年一月八日、判事より、あなたが霊山へおたちになったことを聞いた時の悲しさ。杖を失い、灯を失った心の寂しさ。夜ごと夜ごと、あなたを偲んでは、私は泣きぬれたのでございます」

また、古くからの学会員は、
「自分が死んだとき、霊山浄土で、大聖人にお褒めいただけるよう」
というような言い方をしていたと思います。

所詮、「霊山浄土」というのは、大聖人が、浄土宗の「西方浄土」に対抗して作り出したフィクションではないかと私は思っています。
仏法的におかしいとか論理的におかしいとかツッコミどころは満載ですが、信仰する者としては大聖人の言われるままに信じるのが、素直な信仰というものでしょう。

 

御書より。
●「四条金吾殿御書」
僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人は・まれなり、定めて天の日月・地の地神いかり・いきどをり給いて不孝の者とおもはせ給うらん形は人にして畜生のごとし人頭鹿とも申すべきなり、日蓮此の業障をけしはてて未来は霊山浄土にまいるべしと・おもへば種種の大難・雨のごとくふり雲のごとくに・わき候へども法華経の御故なれば苦をも苦ともおもはず、かかる日蓮が弟子檀那となり給う人人・殊に今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那なりいかでか餓鬼道におち給うべきや、定めて釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん、是こそ四条金吾殿の母よ母よと同心に頭をなで悦びほめ給うらめ、あはれ・いみじき子を我はもちたりと釈迦仏と・かたらせ給うらん

●「上野尼御前御返事」
故五郎殿は、とし十六歳。心ね、みめかたち、人にすぐれて候いし上、男ののうそなわりて、万人にほめられ候いしのみならず、おやの心に随うこと、水のうつわものにしたがい、かげの身にしたがうがごとし。いえにてははしらとたのみ、道にてはつえとおもいき。はこのたからもこの子のため、つかう所従もこれがため、「我しなば、になわれてのぼへゆきなん。のちのあと、おもいおくことなし」とふかくおぼしめしたりしに、いやなくさきにたちぬれば、「いかんにや、いかんにや。ゆめかまぼろしか。さめなん、さめなん」とおもえどもさめずして、としもまたかえりぬ。いつとまつべしともおぼえず。ゆきあうべきところだにも申しおきたらば、はねなくとも天へものぼりなん、ふねなくとももろこしへもわたりなん。大地のそこにありときかば、いかでか地をもほらざるべきとおぼしめすらん。
 やすやすとあわせ給うべきこと候。釈迦仏を御使いとして、りょうぜん浄土へまいりあわせ給え。「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」と申して、大地はささばはずるとも、日月は地に堕ち給うとも、しおはみちひぬ世はありとも、花はなつにならずとも、南無妙法蓮華経と申す女人の、おもう子にあわずということはなしととかれて候ぞ

大聖人は、息子を亡くした信徒の女性に対して、霊山浄土で再会できると慰めています。


素直に日蓮仏法を信仰しているものは、死んだ後、霊山浄土で、日蓮大聖人にお目通りでき、先に死んだ親族にも会える。そこには釈迦・多宝仏・十方の諸仏もおられる……
そう大聖人がお約束して下さったのです。
それでいいではないですか。

 

 


獅子風蓮



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