以下の文章は、山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。
(目次)
■第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
□第5章 悪夢は消えた
□あとがき
最愛の父が逝った
父が倒れたという知らせを聞いたのは、1983年の春。東京ほか各地で開かれている新体操国際大会の最中だった。競技会を終えた私は、一秒でも早く、父の元へ帰りたかった。
「先生、父が倒れたんです。帰りたいんです」
しかし、大学の先生の言葉はこうだった。
「あなたを見るために楽しみに待っている人たちがいるの。あなたは、あなた個人であって個人じゃない。もう日本の山崎になったの。帰るんだったら、地方の演技会がすべて終わってからにしなさい」
私は、自分というものが、とんでもない位置にきてしまったことを知った。
私という一人の人間と、それを超えて歩いていかなければならないもう一人の自分との間で、心は大きく揺れた。そして、「帰らせてください」という言葉は、グッとのみこんでしまうしかなかった。
いくつかの演技会を終え、私は父の待つ種子島に向かった。
中学を卒業以来、8年ぶりに目にする風景。美しい海とやさしい木々の緑。それは昔と少しも変わっていなかった。
しかし、父の姿は変わり果てていた。昔から細身の父だったが、異常に煩がこけ、骨が浮きぼりにされていた。肝臓を悪くしていたため黄疸がでて、目の中も黄色くにごっている。鼻には管が通り、腕に刺されたいくつもの点滴のあとが痛々しかった。身体中しわくちゃで年より30歳は老けてみえる。まるでおじいちゃんだった。
病室に入ってきた私の手を、父はそっと握りしめた。そのあまりの力のなさに愕然としながらも、私は元気に「帰ってきたヨ」と声をかけた。土気色をした父の顔に、薄い笑みがこぼれる。
私は病室から抜け出て、声を殺して泣いた。父に涙を見せてはいけないと思った。
床ずれがして痛いという父の背中や脚をさする。父の尿をしぴんにとる。私にできることといったら、それぐらいしかなかった。
二、三日たって東京へもどる日、私はまた元気に、
「父ちゃん、また来るネ!」
と声をかけた。
父は小さくうなずいた。
そして、それが私が見た父の最後の姿となった。
「お父さんのために学びなさい」
「ヒロ、落ち着いて聞いてね。お父さんが亡くなられたの。早く帰りなさい。しっかりよ」
大学の先生から電話連絡が入ったのは、ブルガリア遠征からもどり、アパートに着いた直後のことだった。
一瞬、何が何だかわからなくなった。受話器を置いたとたん、涙があふれ出した。
頭のどこかでは冷静で、喪服をさがさなきやという想いが走る。でも、きちんとした喪服など持ってはいない。黒い服、黒い服とさがしてはいるのだが、洋服ダンスを何度も何度も開け閉めするだけで、時は刻々と過ぎていった。
やっと荷物を整え、電車にとびのる。
アパートのある国立から羽田空港に着いたとき、最終便はすでになかった。
私は新宿のホテルに勤めている知人に連絡をとり、そのホテルに泊めてもらった。
なぐさめてくれる知人が「こんな時は食べなきやネ」とお寿司をおごってくれた。私はこんな時にでも、おなかがすいて、パクパクと食べられる自分の神経を疑っていた。
翌日、朝一番の飛行機に乗り、実家のある屋久島に着いたのは、お昼過ぎのことだった。目を真っ赤に泣きはらしている母の顔をみて、私も涙があふれ、よろけて玄関からあがることができなかった。
「ヒロコ…‥」
シンと静まりかえった家の中に、母の力ないつぶやきが小さく響いた。結局、父の死に目にも、お葬式にも間に合わなかった。私のオリンピック出場を願っていた父は、その切符を手に入れる前に他界してしまった。
1983年、7月3日。59歳。ロサンゼルスオリンピックのわずか一年前のことだった。
私とテレビのチャンネル争いをして、絶対に負けなかった父。笑いすぎて、入れ歯をふきだしてしまった父。研修でアメリカに行ってきて、帰ってきたとたん、「イエース」「ノー、ノー、ノー」「サンキュー」とすっかりかぶれていた父。
父との思い出が鮮やかによみがえってきた。
その父が、私のために死んでしまった……。私がひとつ階段をのぼるたびに、父は踏み台となってくれていたのか。父の犠牲によって私は頂点へと登りつめたのだろうか。
「お父さんのためにも、もっと真剣に御言(みことば)を学ばなければなりません」
霊能師のM先生の言葉が、重く心に突き刺さった。
ビデオ学習から講義学習へ
父の犠牲を無駄にしてはいけない。これからの人生をもっとよいものにして、父の死に報いたい。
私はM先生に言われた通り、学習場所を都立大学から三軒茶屋の白亜のマンションに移し、週に二度の割合で通うことになった。
「これからは、講師の先生がいらしてくださいますからね」
ビデオ学習は、今度はマン・ツー・マンの講義学習となった。ビデオの中の黒板講義と同じように、本物の黒板を使いながらの生の講義である。
「聖書は今までごらんになったことはありますか」
髪を七・三に分けてサッパリとしたサラリーマンふうの講師が尋ねる。
「はい。高校がカトリック系の学校でしたので」
「じゃぁ今まで神様は信じていらっしゃったんですか」
「そうですネ、はあ、まあ……」
「何でもわからないことがあったら、あとで質問の時間をとりますから、質問してくださいね」
「はい…‥」
午前9時からの講義である。朝が弱い私は、眠くてつらくて仕方がなかった。でもマン・ツー・マンだから眠るわけにもいかない。講師の先生の黒板に書くスピードがとても速いので、私は必死にノートにペンを走らせた。書くのに精いっぱいで、質問なんて浮かびもしなかった。
それでも、見えない霊界、見えない神の存在が少しずつつかめてきた時、私は何だかうれしくなってきた。
(そうか、フムフム、なるほど)
自分だけが、この世の仕組みの秘密を知らされたような気になってくる。
私は、先に印鑑を買って、きっかけとなった友人T子にも、「面白い話がある。ビデオを見たらいいよ」と得意気に話していた。
(つづく)
【解説】
第1章では、山崎浩子さんが旧統一教会と出会い、入信するまでがていねいに描かれています。
「誰よりも私の成長を願っていた父」が、山崎浩子さんの栄光のために犠牲になったと言われて彼女は、ショックを受けました。
根拠もなしに、人の心の弱いところに踏み込んでいくやり方は卑劣です。
教団からの勧誘は、ビデオ学習から講義学習へ移っていきますが、この段階でもまだ「統一教会」の名前は出しません。
獅子風蓮