獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:にゃんこ丸さん登場(8)

2022-03-12 01:49:54 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■他人を思いやれない学会員         投稿日: 2015年6月21日

功徳という名の「自分だけラッキーアイテム」みたいなものがあるって信じてしまう大人って、はたから見ればふつうに恥ずかしい人でしかないんですが、学会員さんの多くがそんな恥ずかしい人になってしまってるんですよね。「これを拝むだけでどんな願いも叶う。それがこの世の真実なのだ~」みたいな小学生だって信じないような夢物語を信じて、そのためならどんなにお金を出しても惜しくないし、どんな政治をやっているかも知らない政党を必死で応援したりできるんです。外部の人間が学会員さんを見る目はそういうものなんです。先日会って話した友人にとっての創価学会の印象はそういうものでした。だから外部の人間にとってみれば関わらなければそれでいいということなんですね。外部の人は創価の実体にまで興味はないですし、ただちょっと極端な考え方の人だなというだけで、折伏されたり新聞とってくれと言われない限りは、てきとうにあしらっているのがほとんどでしょう。でも学会員さんから見た外部の人と言うのは「創価のすごい信仰を知らない、あるいは縁のないかわいそうな人」であり「自分が信心させることで幸せにしてあげられる人であり、それよりもその人を学会員にすることで、自分にものすごい功徳をもたらしてくれるカモだ」と見えているわけです。外部の人からすれば、何でそんなに自分の信仰を押し付けようとするのか理解できないし、当然そんなことをされては不愉快です。べつにその学会員さんに何をしたわけでもないのに「かわいそうな人」として見下されるのですから、そりゃいい気持ちはしないですよね。でも学会員さんにとってみれば折伏や新聞啓蒙のターゲットというのは、いわば自分が功徳をもらえるラッキーアイテムなんですよね。だから他人の迷惑なんて考えることなく、創価のおかしな世界観をゴリゴリ押し付けてくるんですね。そのとき決して悪気はないし、迷惑かけてるとも思っていないんですよね。もうその人の幸せを願っている自分というものに酔いしれてますし、完全に「そのかわいそうな人を救おうとしている気高い自分」になりきってますので、相手が迷惑だなんてこれっぽっちも考える余裕などありません。つまりは他人の幸せを考えているようで、自分のことしか考えてないんです。だから他人を思いやれない人間になってしまう。創価はお金儲けのためにそんな人間をたくさんつくってきたんですね。なりふりかまわず組織拡大をさせ、お金を貢ぐ人間をどれだけ増やせるか。功徳をエサにしながら勤行唱題で思考停止に恍惚感を与えて、正義だ慈悲だと盲目的な闘争心をあおり、相互監視をさせながらも、いつのまにか有り金をはたいて組織拡大を必死になってやるだけの奴隷集団のいっちょあがりです。
外部の人は直接被害を受けませんから、創価がそこまでひどいことをしているなんて知らないんですね。被害者は内部か、外部であっても内部の人がパートナーだったり親だったり子どもだったりと、どうしても関わらないといけない立場にいる人たちです。だから内部の人が被害を被っていて、なおかつその被害者が被害を意識できない仕組みになっているから、これだけひどい犠牲者がたくさんいるにもかかわらず社会問題として糾弾されずに今まできたんですね。そして部分的にどうしてもまずいことがあるときには会員から集めたお金を使って、ヤクザや政治の力で闇から闇に葬り去ってきたんです。
ということで、今回のテーマは「他人を思いやれない学会員」とします。先日朝まで話し込んだかつでの大学時代の友人との話で、結局のところ、外部からみた学会員さんは「自分のことしか考えていないし、その自覚がない」という特徴があるということにあらためて気づきました。学会員さんにそんなことを言っても自覚がないので話にならないと思いますが、これはアンチの私たちが言っているのではなくて、外部の方の偽らざる印象なのです。こうした話を聞くと、ほんとうに過去の自分が恥ずかしくなります。でもそんな過去の自分を冷静になって見ることができるようになって初めて創価のおかしさに気づくことができるのではないでしょうか。「この信心に縁させることがその人にとっての最高の幸せなのだ」という、これ以上ないほどの身勝手な行いを、いい大人が何のためらいもなくやっているのが学会員なんだということをわかって欲しいものです。


●にゃんこ丸 (2015年6月22日 05:31 )
二十年以上前の話ですが、十代後半の女子部に入って間もない時のことでした。
自分の支部の部長が未活になり、会合に出ても仲の良い人が一人もがいなくて足が遠のいていたとき、高等部時代の友人が家まで来てくれました。
「最近会合で見ないから心配しているよ!」「会合においで~」というお誘いだったのですが、すごくフレンドリーに誘ってくれて「待ってるからね!」と言ってくれて、とても嬉しくなりました。
それで「ありがとう」と言うと「いいねんいいねん! これも全部私の功徳になるから!」と言って帰って行きました。
その時は「私のために来てくれたはずなのにそれを功徳のためって言うなんて、何て謙虚な人なんだろう」と感動したのを覚えています。
ところが会合に行ってみると、会場に入った瞬間は「あー、来てくれたんや! 良かった良かった!」と言ってくれたのですが、その後は自分と仲の良い女子部のメンバーとずっと喋り倒して私のことは最後まで放ったらかしでした。私は一人で最後までずっとぽつんとしていましたが、その子は楽しそうに仲の良い子と喋っているばかりで、私には最初の一声以降、まったく話しかけてきませんでした。帰ろうとしてもお喋りに夢中だったので、何も言わずにそっと帰りました。
その時に初めてその子は本当に自分の功徳のためだけに私を会合に誘いに来たんだなぁと悟りました。
もう二十年以上も前の話ですが、今思い返しても、あれはちょっとあんまりにもえげつない態度だったよなぁと思ってしまいますし、それ以降はそこまでのあからさまな人に会ったことはなかったと思います。
まだ十代後半の二世でももうそんな感じに「功徳」に染まっている子も私が知っているだけで複数いましたので、女子部を卒業して婦人部に入っている今頃はもっとすごい人材になっているのかもしれません。
私はそこまで罪悪感なしに行動が出来なかったので、途中で心が折れてしまったと思うのですが、十代からすでに罪悪感なしに功徳のためなら何でも出来るような人が、きっとバリバリ活動してどんどん幹部になっていくのかなと思います。
そういう人はきっと、学会から覚醒するのも難しいんじゃないかなという気がしますし、可哀想だなと思います。

 


解説
対話ブログが非公開になったため、これ以外のコメントを参照することはできません。
詳細を書けず、残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。

獅子風蓮