以前から聴きたかった「カテリーナ・イズマイロヴァ」である。(Yuri Ahronovitch/Italian Radio Chorus Rome,Italian Radio Symphony Orchestra Rome)
このオペラは、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が、プラウダ批判以降、事実上の上演禁止となったその約30年後に改訂されたものとされている。(ただ、プラウダ批判がそれほど上演に対して即威力を発揮したわけではないという説もあり、そもそもショスタコーヴィチがプラウダ批判をどう受けとめたかについても諸説あるようだ。)
その映画版はDVDになっていて、授業でも何回か学生に観てもらった。ただ、この映画版はかなりカットがあるようだったので、全曲を是非聴いておきたかったのである。
私の疑いは、「カテリーナ・イズマイロヴァ」で行われた「ムツェンスク郡のマクベス夫人」にあった過激な性的描写や歌詞の改変が、ショスタコーヴィチの妥協ではなくて、物語の本質により即したものになっていやしないだろうか、ということであった。
チョン・ミュンフンとバスチーユ管弦楽団のCDではじめてこの曲を聴いた時も思ったのだが、セルゲイとカテリーナのポルノフォニーの音楽とか、酔いどれ農夫がジノーヴィの死体を発見して警察に駆け込むときのコミカルで爆発的な音楽があまり派手に「上手く」演奏されると、そのほかの重い場面との兼ね合いというというか据わりが悪くなる気がしていたのである。無論、その落ち着きの無さというか、聴くものを恐慌に陥れるその性質こそがこのオペラの良さであるが、そこを荒唐無稽ととるプラウダ批判がでてくる原因の一つではないかと思ったのである。そして、50代のショスタコーヴィチが「20代のときのあれはちょっとやりすぎたわ」と思っても不思議はないと、私は思った。
……と思って聴いてみたのだが、よく分からなかった。
ただ、ポルノフォニーの省略に比して、第三幕の下品に改変された間奏曲(警察署長のテーマ?のそれ)があるせいか、カテリーナとセルゲイの結婚式から彼らのシベリア送りに急降下する物語後半の印象が強くなった気がした。演奏の方も、後半に向けて感情が高ぶっている気がする。歌詞の改変がどうなっているのかさっぱり分からないが、ドラマは「ムツェンスク郡のマクベス夫人」よりも、かわいそうなカテリーナを前面に押し出している可能性があると思った。題名も彼女の名前になってるし……。
これは、ただの私の妄想なので、専門家の論文でも探して読んでみようと思った。そのためにはロシア語を勉強した方がいいなあ……。
演奏は、ときどきとっちらかっているような気がしたが、私はあんまりそういうことは気にしないことにしている。だいたい、こういう曲を演奏できるだけでもプロはすげえよ……。このCDはライブ録音で、幕ごとの拍手も入っている。「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を新国立劇場で観た時もそうだったけど、観客の拍手も演奏の一部である様に、オペラのライブは進んでいくもので、少々のとちりもそのあとの優れた一場面で帳消しになってしまったりする。野球の逆転ホームランのようなものである。この演奏は最後の第4幕が感動的だったので、その場にいたら満足して家に帰れたと思う。