★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

すさまじい負けから老いるべし

2011-07-11 06:49:05 | 思想


http://www.hyogo-koyaren.or.jp/baseball/view.php?kind=10

昨日のある試合。

氷上西 0ー71 姫路工(5回コールド)

http://up3.viploader.net/baseball/src/vlbaseball013128.jpg

これには及ばなかったが、潔い負けっぷりである。どうみても氷上西は単に弱かった。

私は、10代のうちに、「すさまじい負け」を経験することはよいことだと思う。負けた時に自分がどのような言い訳をして生き延びてゆくかをつぶさに観察することは大切なことである。心では勝っていたとか、他のことでは負けねえぜ、青春だからよしとか、人生経験だからよし、とか考えているうちに時間が過ぎてゆく。でもなんとか生きてゆく。……これを20超えて経験していては遅すぎる。20年も生きてしまうと、もう負けを認めることがまず難しくなってしまう。ルサンチマンにまみれ無為な時間が過ぎてゆくと感じる以前に、実際に何か奸策をやってしまうのである。私はルサンチマンを感じることはよいことだと思う。ニーチェは実際ルサンチマンに満ちあふれた男であった。だから、彼は、ルサンチマンすら意識できない馬鹿を批判したとすべきである。

ところが、前世紀のはじめにニーチェに熱狂した連中のなかには、ルサンチマンを悪とみなしてそれを消去しようとしたものがいる。老成ではなく思春期以前に戻ることによって。ニーチェが批判しようとした人間に敢えて戻ってしまったわけだ。金髪獣はやっぱり単なる獣であった。

日本も決して若くはない国である。何かあるともはや素直に負けを認められないのであろう。私は、日本には歴史的に積み重なってしまったルサンチマンがあると思う。危機に際して、単に経済合理性や民主政治などで転回してゆけると考えるのは、若返ってルサンチマン以前に戻ろうとすることと同じでもはや非現実的である。「戦後」が間違ったのは、それが若々しい成長のメタファーで語られたことだと思うのである。

女子高生ツンデレ眼鏡っ子ロボット

2011-07-10 04:41:45 | 映画
昨日の記事は、普段に較べて突然倍ぐらい訪問者が増えていたのだが……、なぜだろう。

女子高生とか、ツンデレ眼が根っこ眼鏡っ子とか、ロボットとかに反応したのであろうか……

日本の人民よ、もっと社会に関心を持て!

例えば、「尻怪獣アスラ」(米2004)などから入ったとしても、ちゃんと元ネタの「モスラ」にこめられた社会批判へと出て行かなければ、民度が高いとはいえないよ。而してそののちに再度「尻怪獣アスラ」を観るのだよ。

そういえば、韓国のなんとかっていう女優が、子どもの名前には「ラ」をつけるとか言ってたけどどうなったんだろう。特撮ファンなのだろうか……

昨日はお腹が痛くて寝ていたのだが、昼寝ではマーラーの指揮する映像を一時間も見ていたので疲れた。案外普通の指揮だったので退屈した。退屈ついでに、世界の名画に「ラ」をつけてみた。

「風と共に去りぬら」

「カサブランカラ」

「七人の侍裸」

「勝手にしやがれら」

「ゴジラララ♪」

「恋空ラ」

……頭が働きませんので失礼します。

水鏡綺譚 対 女子高生ロボット戦争

2011-07-09 03:51:11 | 映画
金曜日の夜は気を抜く。


近藤ようこの『水鏡綺譚』。作者が自分を納得させようとしている最後がよかった。もっと破滅的な終わり方もあり得ることを作者は知っているのであろう。しんみりしたところで……


「女子高生ロボット戦争」を観る。以前観た「チアリーダー忍者」よりはいくらかましな映画であったが、レンタル屋のゲ×がこれをSFコーナーに置いておくのは問題あるな。安っぽいCGのロボットが合計1分も出てなかった。しかも、女子高生が金属バットで殴ったら足が折れたぞ……。ちなみに、上の画像のロボットの大きさは完全に間違っている。(ナウマン象とプレリードッグぐらい違う。)背景のビルはなかったし、少女の容姿も違うし、つまり、上の画像で、作中の内容と合っているところはほとんどない。こういう映画の特徴は、DVDの絵の方が、作中のCGよりリアルであることであろう。この映画のCGも期待通りの出来だった。

それはともかく、ある田舎町の話である。ビバリーヒルズから越してきたという一秒で馬鹿と分かるイケメンを、二人の親友──スーパーオタク(理系ツンデレ眼鏡っ子天才少女・ブリトニ~)とスーパーガール(スポ根系少女・アリ~)が、取り合う。キャラクターからいって当然、攻撃をしかけるのは、もっぱら前者で、屁こきマイクロマシン入り霧吹きを浴びせたり、上記のロボットで襲ったり、校内でミサイル(熱追尾ではなく、校長の頭に当たって進路が変わってしまう程度のものであるが──)を発射したりする。彼女は、コンピュターに勝った天才チェス少年(9歳)を理不尽に軽く一蹴するような性悪天才なので──、それらは全て一夜漬けで完成させた武器である。最後はネタが尽きたためか、本で読んだテコンドーか何かでの肉弾戦。

でも、何の根拠もなく仲直り(←ここだけ、妙にリアルだな。人生を分かってるっ)

とはいえ、校内でいろいろやってしまった罪で逮捕される二人。ところが、この田舎町、ブリトニーの親父がやってる会社の従業員がほとんどの町なので、最後は、その親父殿がガードマンととともに校長を脅迫して罪には問われずハッピーエンド(←世の中が分かってるっ)。ついでに、プロレスラーから知事になったある女性への批判をしてた(←現実をなぜ持ち込む……)。

こんなお馬鹿映画でもなんだか知性があるんだよなあ……それに較べて、日本のJKは……

夏越の大祓

2011-07-08 23:52:25 | 神社仏閣




木曽の水無神社で「夏越の大祓」に参加する父達。人形に罪穢れをうつして祓う行事である。下はその祝詞。祝詞の語り方は非常に興味深い。所謂「棒読み」なのである。


「水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶといふなり」(『拾遺和歌集』)






……しかし、私は、人間には原罪というものがあると思うのだ。

織姫と彦星とマーラー

2011-07-08 01:23:51 | 音楽


もう昔から会いすぎているので会話もない夫婦になってしまった彦星・織姫。

そして、死ぬ前にアルマちゃんに実質逃げられていたので、150回の誕生日だけどあいかわらず孤独なマーラー。大丈夫だ、アルマの曲は聴く気になれんが、マーラーの曲は私も昨日ちょっと聴いた。私は貴方の味方です。

彦星・織姫、もう離婚した方がいいんでない?

Kさん来る

2011-07-07 23:05:49 | 大学
先日のIさんに続いて、今日はKさんが研究室に訪ねてきてくれた。

太宰治「走れメロス」の津軽弁バージョン「走っけろめろす」のCD付きの本を借りに来たのである。授業で使うらしい。Kさんは高校で国語を教えておるのである。

Kさんは芥川龍之介が好きで、一昨年の演習Ⅱ(保吉ものあたりの芥川龍之介を読む)では結構優秀だった。私の大学院の時よりもいけているのではないかと思う時もあったぐらいである。

トータルな力を考えた場合、たぶんKさんぐらいが高校で国語を教えて良いぎりぎりのラインといったところだろう。私が考える基準で言えば、である。それ以下である場合、これから教員になりたいと思っている学生諸君(いや現役の先生方も含めて)は、日本の頭脳維持のために迷惑だからやめといて貰いたい。というのが私の本音である。

私の演習如きで……、あるいは卒業論文、修士論文あたりでホントに苦労してしまう場合はちょっと問題外である。私も×川大にきた当初は、高校までの教員になる人間が卒業論文で優秀であるとは限らないのではないかと思っていたのだが、実態はどうやら違うようだ。学者になる訓練をしているのではないのだから、卒業論文程度で駄目だったらやっぱり教員に必要な読解力とか思考力自体に問題があるといわざるを得ない。国語は特に、小学校の教材と高校の教材の難易度レベルの差が本質的にはあまり存在しない。本当は大学の演習で扱う文章との差違もあまりない。(このことが分からない人は、ほんとに教員はやめといてもらいたい。)教科書の文章に限らず、大学の演習などで扱う文章に対して派手に時間を掛けて苦労している場合ではない。そんな暇は現場にでてからは確実にない。力がない場合は、時間がなく予習で隠せなかったその力のない生の状態を、児童や生徒の前で秩序維持のために威張りながらたれながすことになる。だから迷惑だといっているのである。

Kさんもだいたいそんな感じで考えているようであった。よかったよかった。そんな元学生が存在しないようになったら、我々のやり甲斐もなくなってしまう。

私自身も、教師をやっても許されるレベルを維持するために日々勉強に励むことにしたい。

ドラゴン松本辞職

2011-07-06 02:11:41 | 思想
ドラゴンヘッド、いやドラゴン松本氏が知らないうちに復興担当相を辞任させられていたわけだが、実に我々の住む世界のいまいちさを象徴する様な出来事であるなあ。おもいつくままに感想を書いてみるわ……。

ニュースを今日知ったから、ニュースが出てからの世の中の動きはよく知らない。

ドラゴン氏の「暴言」に対してマスコミがどのような速度で反応をしたのか、本当はどのようなきっかけでパッシングに移行したのかはよく分からないが、興味深い事象である。たぶん、こういうのはネットの方が反応が先だろう。例の知事との会談の場で、「ここはオフレコだ。報道した社は潰すぜ」とかなんとか言ったあと、周りではちゃんと笑っているやつもいた。そこで笑うなよ、とは思うけど、現場の空気というものはそんなもんかもしれない。マスコミの「オフレコ」ルールについては何も知らないが、そんなことは慣れていると推測される。しかし、ネットの世界は、最近、こういう「大本営発表」に関係ありそうな出来事には過敏になっているから、「それきた」となったのではなかろうか。「そっちで知恵を出さなければ国は助けねえぜ」発言だけでは、これほど盛り上がったとは思えない。地方と国の関係は金の問題で双方難しい問題がいつもでてくることぐらいみんな知っているからだ。普段、我々は仕事をやっていて、相手がとても偉そうな態度をとっていても、仕事を一応実現させるために、「てめえの態度はえらそうだ。その上から目線を何とかしやがれ」とかいきなり言ったりはしない。それこそ相手とのやりとりを工夫するものである。多少失敗しても、なんとかするものです。しかし、言論の空間は、仕事を実現させることよりも、相手をへこますことの方を優先してしまうので、偉そうなドラゴン氏は格好の餌食である。思うに、ああいう態度のやつというのは、仕事が案外人並み以上に出来るか、全く出来ないアホかどちらかであり、仕事をやっていく中でそれを見極めるのもコミュニケーション能力(笑)の一部だと思う。マスコミ諸氏だって、そのぐらいのことは分かって政治家と付き合ってきているのではなかろうか。それが昂じて記者クラブとかで仲良くなっているのはまずかったが……。思うに、政治家も記者クラブもきちんと「大本営発表」を作り上げる能力すらなくなっているのではなかろうか。これは必ずしも良いことであるとは限らないと私は見ている。

で、震災に限らないが、被害者とか「かわいそうな人々」がいる空気の時には、とにかくその追悼の雰囲気を乱す毛色の変わった発言をするやつを叩きたがる我々の風土が後押ししているに違いない。スッカラ管首相も、とにかく、あの空気を読まなさそうな雰囲気がい管(笑)そこに民主党にサヨクの残党が多いとか、ドラゴン氏の被差別運動関係の情報が付随して、すなわち、その面倒な問題に性急に白黒つけたい我々の習慣が加わったことも何か関係がありそうである。

一方でドラゴン氏であるが、この方の態度も、単に偉そうなのではない。とにかく、あれは先制攻撃が交渉力だぜ、というスキルを身に付けた人間の態度である。議論に勝つためにはとにかく勢いだぜ、という態度であるかにみえる。こういう人間は現在おそろしくたくさんいるので、我々はそういう態度に対してはとにかく敏感に反応してしまうのである。

あるいは、ドラゴンに限らず、被災地救援のためにお金を持っていかれるのを怖れる官僚や政治家はかなりたくさんいるはずであって、ドラゴン氏としては、そこは一発がつんといっとかなければ、こちらの自由がきかなくなったら大変だぐらいに思っていたのかも知れない。そこは、相手の知事も分かっていたはずで、「県と国とは対等だ」とコメントを後に残していた。国と県との関係は、対等であるとか、対等でないとかいう問題ではないだろう。知事も買い言葉としてそんなことを口走ってしまったのであろう。吉里吉里国として独立するならともかく……。

あるいは、ドラゴン氏みたいな人間は、リーダーになったうれしさで、つい仕事への愛情表現で躁的に威張ってしまい、ついでにますます仕事をがんばるタイプなのかも知れない。サッカーボールを蹴ってるところが、どうも普通ではなかったようである。あるいは、単に威張りたいだけのやつか……。

とにかく、我々にとってのコミュニケーションが、その内容以前に勝ち負けみたいなものになってしまっていることがよく現れているように思う。この状態をなんとかするためには、「まあ、とにかく落ち着こう。」と思うだけではだめじゃなかろうか。問題は内容である。内容をきちんと検討し、相手を説得できる自信があれば、いきなり相手に先制攻撃をしなくてもよいわけである。双方にその自信がないから、なんとか事態を切り抜けるためには、自分が出来るだけ損をしないように、小狡く振る舞う必要が出てくる。もうこうなったらいきなり先制攻撃しかないわな。コミュニケーション能力が重要とか言い出すこと自体、自信の無さの表れであり、どんぐりの背比べ的集団の一員であることの証拠なのではなかろうか。私が心掛けたいのは、とにかく落ち着いてまずはよく一人で考えてから、相手の気分を考え、しっかり話し合うことを理想とすべきということである。その場合優先されるべきなのは「まずはよく一人で考え」ることだと思う。それがないと必ず泥仕合になる。

でも、それは難しいよね……気分的に。人間の言論の世界なんて、意見が衝突することが普通であるのに、文句を言われないように気をつけているうちに、自分にも他人にも言論統制を求めるようになってしまっている。こんな抑圧的な状態に人間が耐えられるわけがない。だから、ときどき、トンでもない暴言となって爆発してしまう。その爆発の危険性をお互いに知っているから、またそれでお互いに監視しあってしまう。悪循環である。そんな感情的な軋轢を続けるうち、言ってもわからないやつが多い、どうみても周りは馬鹿ばかり、と思ったとしても、誰かが我慢すべき時に我慢すべきだと思う。我々の目指すべきなのはやるべき仕事であって、自分の心理的満足、いや「自分の幸福」ですらないからだ。しかし、これは私の理想に過ぎない。それに、そもそもやるべき仕事があまりにくだらない場合は、どうしようもない。やっぱり重要なのは内容である。

追記)そういう意味では、ドラゴン氏が「ちゃんとコンセンサスを得ろよ」と指摘したその内実がどうなっているかが気になるところである。原爆後の広島においても「復興」(笑)が住民とのコンセンサスとやや関係なく行われたのはよく知られているところであろう。非常時だからこそ穏やかに勝手なことをする為政者は多いね、私の貧しい経験から言っても……。

文芸サークルとわたくし

2011-07-04 18:03:00 | 文学


法学部の学生がやってきて「顧問になって下さい」とゆーので、なってさしあげたわたくし。

私が条件として出したのは、「文芸誌を出せ。そして芥川賞を盗れ。北大のやつに負けるな」である。

みなさん、×大から近年中に芥川賞が出ますよ。

一神教的原発と二神教的緑の党

2011-07-04 05:47:18 | 思想


朝である。

内田樹+中沢新一+平川克美の『大津波と原発』をさらっと読んだ。Ustreamでの鼎談に加筆したものらしい。さすが有名人ともなると、雑談が本になってしまう、という僻みは置いておいて……。

このメンバーだと、一番妙なことを言い出しそうなのは、中沢氏だが、やっぱりそうだった。原発が一神教的神であるにかかわらず、それを宥める術を知らなかった日本人は、やっぱりアニミズムだった……ということである。対して、インドの初期の原発は、シヴァのリンガの形をしているそうである。

確かに、そう考えてみると、原発は、スターリン主義とともに、戦後の知識人がしだいに「なかったことに」というか、やおろずのキャラクターの一部として受け流してきたものに他ならなかったのであろう。

で、中沢氏は「緑の党」をつくり、旗に宮沢賢治と南方熊楠の絵を描くそうであるが……。そこで二人の神をつくることに中沢氏の意図がこめられているのであろうな……。私はそれ以上の人は必要ないと思う。


カテリーナ・イズマイロヴァ

2011-07-03 23:39:59 | 音楽


以前から聴きたかった「カテリーナ・イズマイロヴァ」である。(Yuri Ahronovitch/Italian Radio Chorus Rome,Italian Radio Symphony Orchestra Rome)

このオペラは、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が、プラウダ批判以降、事実上の上演禁止となったその約30年後に改訂されたものとされている。(ただ、プラウダ批判がそれほど上演に対して即威力を発揮したわけではないという説もあり、そもそもショスタコーヴィチがプラウダ批判をどう受けとめたかについても諸説あるようだ。)

その映画版はDVDになっていて、授業でも何回か学生に観てもらった。ただ、この映画版はかなりカットがあるようだったので、全曲を是非聴いておきたかったのである。

私の疑いは、「カテリーナ・イズマイロヴァ」で行われた「ムツェンスク郡のマクベス夫人」にあった過激な性的描写や歌詞の改変が、ショスタコーヴィチの妥協ではなくて、物語の本質により即したものになっていやしないだろうか、ということであった。

チョン・ミュンフンとバスチーユ管弦楽団のCDではじめてこの曲を聴いた時も思ったのだが、セルゲイとカテリーナのポルノフォニーの音楽とか、酔いどれ農夫がジノーヴィの死体を発見して警察に駆け込むときのコミカルで爆発的な音楽があまり派手に「上手く」演奏されると、そのほかの重い場面との兼ね合いというというか据わりが悪くなる気がしていたのである。無論、その落ち着きの無さというか、聴くものを恐慌に陥れるその性質こそがこのオペラの良さであるが、そこを荒唐無稽ととるプラウダ批判がでてくる原因の一つではないかと思ったのである。そして、50代のショスタコーヴィチが「20代のときのあれはちょっとやりすぎたわ」と思っても不思議はないと、私は思った。

……と思って聴いてみたのだが、よく分からなかった。

ただ、ポルノフォニーの省略に比して、第三幕の下品に改変された間奏曲(警察署長のテーマ?のそれ)があるせいか、カテリーナとセルゲイの結婚式から彼らのシベリア送りに急降下する物語後半の印象が強くなった気がした。演奏の方も、後半に向けて感情が高ぶっている気がする。歌詞の改変がどうなっているのかさっぱり分からないが、ドラマは「ムツェンスク郡のマクベス夫人」よりも、かわいそうなカテリーナを前面に押し出している可能性があると思った。題名も彼女の名前になってるし……。

これは、ただの私の妄想なので、専門家の論文でも探して読んでみようと思った。そのためにはロシア語を勉強した方がいいなあ……。

演奏は、ときどきとっちらかっているような気がしたが、私はあんまりそういうことは気にしないことにしている。だいたい、こういう曲を演奏できるだけでもプロはすげえよ……。このCDはライブ録音で、幕ごとの拍手も入っている。「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を新国立劇場で観た時もそうだったけど、観客の拍手も演奏の一部である様に、オペラのライブは進んでいくもので、少々のとちりもそのあとの優れた一場面で帳消しになってしまったりする。野球の逆転ホームランのようなものである。この演奏は最後の第4幕が感動的だったので、その場にいたら満足して家に帰れたと思う。