★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

1968 対 マチウ書試論

2011-07-26 23:22:34 | 思想


大学院の最後の授業では、小熊英二の『1968』と吉本隆明の「マチウ書試論」を比較して話をする。吉本が摘発するコンプレックスによる観念秩序の生成は、小熊にも吉本にもあり得る。吉本に於いては罵倒の重奏の中に、小熊に於いてはこの本の重さの中に……。というのは冗談でもあり、半ばそうでもない。私は授業のなかで、そうではないものとしてニーチェの「反キリスト者」を推したが、これもまたそう言ってしまうとそうでもない気がしてくる。

いずれにせよ、この三者を並べてああだこうだと批評するのは、いわば内ゲバである。我々が普段要求されるのは、もっと低次元の事柄である。しかしこれも小熊英二並みの量を持ってくると、質に転化している。質になったというのは、別に迫力を増したというのではなくて、一つ一つが劣化していることによって量を支えているのである。


研究室裏遍路

2011-07-26 00:59:22 | 文学
音楽学のI先生から×川大学のメールマガジンの原稿を頼まれていたので、とりあえず書き始めておくかということで、朝9時のゼミが始まる前にそそくさと書き飛ばし、書き終わりかけていた……ところ、I先生から正確な字数制限などの情報をメールでいただく。私が勝手に妄想していた字数より少なかったので、ゼミが終わってはじめから書き直す。また、焦って失敗したっ。基本的に敬体にしたためもあってかなり趣の違うものになった……どころではなく全く違う内容になった。ちょっと私の悪いところが出てしまったような文章で、書き終わってから落ち込んだ。10月になったら×川大学のホームページで読めると思うから、もの好きな方はどうぞどうぞ。




というわけで、以下はボツにしたバージョンである。もう自棄で、ブログ用にふざけた感じに直したところもある。

研究室遍路……渡邊史郎


……×育学部内の「日本近代文学」研究室の渡邊史郎先生にお話を伺いに行きました。

──失礼します。××研究室の××です。今お時間よろしいでしょうか。

渡邊:誰ですか?こんな時間に失礼な。

──(まだ午後2時じゃねえか……)すみません。けけけんきゅう室遍路の取材で。

渡邊:なんだあれか。いま恋愛小説を読んでていい場面なんだ。「ボブはいきなりジェシカの……」。明日にしてくれよ。

──明日は、教員採用試験なんです。もうせっぱ詰まってるんです。

渡邊:そんな時に来るなよ。馬鹿じゃないの?じゃあ、この引用の作品名を答えられたら時間を作ってやってもいい。「いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。朝は、意地悪。」

──昼間からなんなんですか、それ。えーと「身悶え意地悪」ですか。

渡邊:帰れ帰れ。


──(次の日に)失礼します。××です。昨日の小説は太宰治の「女生徒」です。

渡邊:君、採用試験は?

──受けてきました。先生のおかげで轟沈です。

渡邊:(突然にやにやして)君は、いけすかないヤサ男だと思っていたが、見どころがあるな。この前一緒に歩いていた彼女とは別れただろうね?

──なぜ分かったんです?

渡邊:私の専門は日本近代文学です。明治時代の小説の主人公は、だいたい法学部か経済学部のヤサ男に女を寝取られる。そして懊悩しているうちに試験勉強もやらず転落人生一直線だ。ましなやつも、労働者を先導して糞資本家を吊し上げたりして、結局牢屋に入ったりする。「君も一緒に革命しない?」といって若い子をナンパするやつもいるな。しかしその場合もたいていは「世界観とは?」とか「矛盾とは?」とか「弁証法とは?」とか「不条理とは?」とか「虚無とは?」とか悩んだあげく「嗚呼女人哀也」とか言って転落だっ。それに引き替え糞ヤサ男と来たら、「あなた?今朝は何にします?」と妻に聞かれると、「そうだな。今日はボルドーにしよう。明日は海岸をドライブさ。」だと。「あなた、子どもは何人にする?」……こんなだぜ。俺をどうしてくれるっ。不公平だっ!

──……先生、私の姿からそこまで妄想できるんすか。完全に私怨じゃないですか。落ち着いてください。ところで、先生は昨年の共通科目のシラバスで「人生の醍醐味は失恋である」と断定されていますが、科学者である先生がこんなことを言っていいんですか?

渡邊:科学よりボケを優先してるのがわからないんですか?大学は知的なことをやるところという漠然な位置づけでいいんだよ。モンテーニュあたりを読んで君も勉強したまえ。文学者で科学者を僭称する奴って間違いなく、学会や政府や党の犬っころで(以下、誹謗中傷のため10行削除)

──先生の論文一覧を見たんですが、小説だけでなく評論についての論文があるんですね。

渡邊:私は、花田清輝というマルクス主義評論家の研究から出発しましたからね。

──そ、それはアニメ原作者の花田十輝さん──キャラ設定を勝手に変える悪名高い……

渡邊:なんだ、君はアニヲタか。終わったな、君の人生終わったな。

──その発言は教育者としてどうなんすか!

渡邊:(記者の発言は無視して)花田清輝は十輝の祖父であって、パロディの名手だった。私が昔書いた卒業論文は、彼の「ブリダンの驢馬」というエッセイが、多様なジャンルの大量の引用の織物──つまりパロディといってもよい──であることを示したものです。彼はあらゆるジャンルをごちゃ混ぜに「綜合」して芸術を蘇生させようとしたと思います。はじめは、西田哲学と日本浪曼派、マルクス主義といった思想の理論レベルでの結合を試みた。戦後は視聴覚芸術さえ取り込もうとした。口語と近代叙述文体との関係をいじくって評論と小説の結合もやったよ──小林秀雄と太宰治をくっつけた様なものですね。私が論じてきたのは、花田のそんな側面です。

──その花田のやり方は、違うものを強制的に統合するという、悪い意味で「前衛党的」というか、ソ連というか……を想起させるんですけど……

渡邊:馬鹿の割に、良いところに気が付きましたね。その危険性をついたのが吉本隆明(あ、「ばなな」の父ちゃんね──)だね。花田の芸術論は、諸芸術の関係という抽象的な「関係」を見出す作戦といってもよかったが、その「関係」は非常に文学的な、現実疎外的「幻想」である。しかも、それは実は革命政府の暴力──つまり「幻想」的理想を強制するための様々な個人やコミュニティへの暴力──の本質なんだと見なされる。これは花田の企図というより吉本の解釈だが。で、吉本は「ちがう、我々の現実にあるのは、親や恋人といった『関係の絶対性』だ。花田達『前衛』は夢から覚めろ」と言ったわけだ。

──なんだか分かってきました。意外と文学の問題は現実的なんですね。花田の言っているのは所謂「コラボ」やら「連携」をどう見るかという問題ですね。花田は社会での「連携」を、吉本は「隣の女」との「連携」を重視する、と……悩みますね、こりゃ。

渡邊:違う。それは吉本が構成した抽象的な対立……あ、ごめん、どちかというと私が今作ってみた対立であって、彼らが言ってることじゃない。君もそんな風に発想していると、結局女を守るとかいいつつ空気を読むだけの男になる。

──先生、自分を追い込んでるんですね。

渡邊:俺の話聞いてないだろ。だから、それはせいぜい吉本と花田が喧嘩したことで構成され得る二項対立であって、個々の作家や作品の問題として存在するとは限らない。俺たちはすぐ社会をそんな対立で捌く癖をつけている。ネットの言説の大半はそんなもんです。駄目だね。ところで、ここで本題にやっと入るわけだが、作品を「読む」ということは、さしあたりそういう対立を持ち込まずに読むことだと思う。これはすごく「社会」、いや「人間」を見るための思考の訓練になる実践的な苦行です。小説読みをディレッタントとしかとらえられないのは、ディレッタントだけです。優れた作品には、仮想の対立を屁とも思わない認識が書かれている。私は評論より小説や詩の方がその点優れている気がしています。で、×川大に来てからは、日本浪曼派や中野重治や中勘助、芥川龍之介などの小説を論じている。ときどき、花田や吉本論を書いたり、遊びで「犬がでてくる文学史」を構想したりしているけれども。梅崎春生や森鷗外なんかも好きです。本当は漱石を尊敬していますが、こいつは不気味な感じがする作家です。得体が知れない感じがするので、まだ近づけません。

……以下、渡邊先生は、三時間近く、ヘーゲルだのマルクスだのジャック・ラカンだの原発問題だの宮崎アニメだのいろんな話を延々しておられました。ほとんど何を言ってるのか分からなかったです……