★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Kさん来る

2011-07-07 23:05:49 | 大学
先日のIさんに続いて、今日はKさんが研究室に訪ねてきてくれた。

太宰治「走れメロス」の津軽弁バージョン「走っけろめろす」のCD付きの本を借りに来たのである。授業で使うらしい。Kさんは高校で国語を教えておるのである。

Kさんは芥川龍之介が好きで、一昨年の演習Ⅱ(保吉ものあたりの芥川龍之介を読む)では結構優秀だった。私の大学院の時よりもいけているのではないかと思う時もあったぐらいである。

トータルな力を考えた場合、たぶんKさんぐらいが高校で国語を教えて良いぎりぎりのラインといったところだろう。私が考える基準で言えば、である。それ以下である場合、これから教員になりたいと思っている学生諸君(いや現役の先生方も含めて)は、日本の頭脳維持のために迷惑だからやめといて貰いたい。というのが私の本音である。

私の演習如きで……、あるいは卒業論文、修士論文あたりでホントに苦労してしまう場合はちょっと問題外である。私も×川大にきた当初は、高校までの教員になる人間が卒業論文で優秀であるとは限らないのではないかと思っていたのだが、実態はどうやら違うようだ。学者になる訓練をしているのではないのだから、卒業論文程度で駄目だったらやっぱり教員に必要な読解力とか思考力自体に問題があるといわざるを得ない。国語は特に、小学校の教材と高校の教材の難易度レベルの差が本質的にはあまり存在しない。本当は大学の演習で扱う文章との差違もあまりない。(このことが分からない人は、ほんとに教員はやめといてもらいたい。)教科書の文章に限らず、大学の演習などで扱う文章に対して派手に時間を掛けて苦労している場合ではない。そんな暇は現場にでてからは確実にない。力がない場合は、時間がなく予習で隠せなかったその力のない生の状態を、児童や生徒の前で秩序維持のために威張りながらたれながすことになる。だから迷惑だといっているのである。

Kさんもだいたいそんな感じで考えているようであった。よかったよかった。そんな元学生が存在しないようになったら、我々のやり甲斐もなくなってしまう。

私自身も、教師をやっても許されるレベルを維持するために日々勉強に励むことにしたい。