★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

無義と忘却

2022-08-10 23:06:32 | 思想


念仏には無義をもって義とす、不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき。

なにかをしようとして念仏をするんじゃないのだ、その意味というのは、言うことも、説くことも、想像することもできないのだ。あるいは親鸞は、西田幾多郎の「純粋経験」みたいなことをいいたいのであろうか。我々は関係する意味をつい持ち出して、そんなことを考えなかった時間までなくしてしまうのであった。しかし、他方、考えていたことを忘れ、苦悩している場合もあると思う。

中国がかつて近代化でごたごたしたのは明らかに科挙制度で勝ち上がっただけのお馬鹿さんが威張っていたというのがあるはず。科挙は少数のエリート意識があったのに対して、日本のセンター試験(共通テスト)は違うと思いたいひともいるだろうが、そうでもないと思う。より多くの人間の頂点付近にいるということでよりやっかいだと思う。私の知り合いでも、人間、一つの基準で一斉に競争させればがんばると思っている★大出身のやつがいる。しかし現実は逆で、ほとんどの人が負ける「競争」で、そのほとんどの人ががんばると思うか?競争はやりたい専門家同士で勝手に自由にやればよいし、じっさいやる。最初は、お上が主催するレースで勝ちたいと思うやつはそういうマインドのやつだけであるが、学校の受験制度がそれをすべての人間に強制し始める。すると、きがついたらお上がレースを主催しないと何もやらない人間たちが教員になったりして、自由な専門家集団と入れ替わってしまうのである。

むろん、学校や企業など、金儲けの集団は、そんなお上に従順な連中を生産してくれるというんでそりゃ歓迎だというわけだ。国家と商人がかくして目的を一致させているのはどっちが悪いと言うより、もともとそういう紐帯をもっているのが資本主義というやつだというのが、マルクスの言っていることだ。

そんなことは、共通一次試験の是非を議論していた連中はみんなわかっていたはずなんだが、ただ、いまは忘れてしまったわけなのである。そういう場合には、忘れてしまうことの合理化として、ただ念仏せよとか、純粋な魂だとか言う馬鹿が出てくる。しかしこのひとたちはまだ素直な方であって、よのなかもっと狡賢いタイプがだいぶいるのであった。しかし親鸞は、そういう連中は勝手に地獄におちると思っていたのかもしれず、日蓮の方が素直に狡賢い人間に怒っていたような気がする。


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