蒙ひそかに古今の変化を採って安危の由来を見るに、覆って外無きは天の徳なり。名君これに体して国家を保つ。のせて棄つることの無きは地の道なり。良臣これにのつとって社稷を守る。もしそれその徳欠くるときは、位有りといへども久しからず。いはゆる夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗らる。その道違ふときは威有りといへども久しからず。
「方丈記」の貴族的無力感がだめだからといって、こういう風にクリアカットにものごとを裁断されてもこまるのだ。「太平記」では天の徳であるが、いろいろここに代入できる。この融通無碍さを見えなくしているのが、「覆って外無き」という、いまだったら「一人も取り残さない」なんとかというやつで、SDGs的な何かとも似ている文言で、これは取りこぼした時には名君じゃなかったね、はい交代、という風になるわけで、――結局、ずっと「取り残される」人がいるのが前提になっている。――というのは冗談だとしても、案外君主の威張る理由と臣下がそこにぶら下がる理由を正当化しているところがある。強力なリーダーによる共産主義みたいなものである。危機の後にはみなそんなことを考えている。
あるいみで、自助共助公助というのを政権がいいだすのは当然なのである。全てを助けるのは太平記みたいな大義名分の道徳に帰ることであり、あくまで君主はいてはならないので。むろん、今の政権はそんなモチベーションでいるのではなく、コネクションが小さくなってしまったのである意味で身動きがとれずに「公」に力を行使するために、お金をちらつかせた命令しか出来なくなっているにすぎない。
「方丈記」の作者がそうであるように、末期的状態ではコネクションが寸断されていて、孤独な人が増えている。
だからそれを一気に乗り越えようと思って、「立正安国論」のように、「先ず国家を祈って須らく仏法を立つべし」という感じで、「公」を「国家」という大きさで考えることを徹底せよ、みたいな意見が出てくる。長明みたいに個人の範疇が重荷になるような状態からの解放である。
独り此の事を愁いて胸臆に憤悱す客来つて共に嘆く屢談話を致さん、夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり而るに今神術も協わず仏威も験しなし、具に当世の体を覿るに愚にして後生の疑を発す、然れば則ち円覆を仰いで恨を呑み方載に俯して慮を深くす、倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。
当たり前であるが、客と主人の対話である「立正安国論」は、一人の人間が書いている。「世皆正に背き人悉く悪に帰す」という重みに耐えるだけの世の酷さに関する観念的描写を、この前に客がしている。長明がこういう風にならないのは、対話をしようとしなかったからではなく、しっかり描写にたいして意味づけをせずに呆然としていたためだ。