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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Strange Fruit

2025-04-08 23:17:22 | 文学


「それは、やめなさい。」と王様はおっしゃいました。 「おまえもほかのものたちと同じように、ひどい目にあうにきまっている。いま、おまえに見てもらいたいものがある。」こう言って王様は、ヨハンネスをお姫様のお庭へ案内しました。ああ、なんという恐ろしいありさまでしょう!木という木のこずえには、お姫様に結婚を申し込んで、なぞをとくことのできなかった王子が、三人四人とつるされていました。風が吹くたびに骸骨がカタカタと音をたてました。小鳥たちもこわがって、お庭の中へはいって来ようとはしませんでした。草花はみんな、人間の骨にし ばりつけられてあるし、植木鉢には髑髏が植わっていて、歯をむき出していました。まったく、お姫様のお庭としては、とんでもないお庭でした。

――「旅のみちづれ」(大畑末吉訳)


現代人の一部が「青髭」や「サロメ」や「奇妙な果実」を思う怖ろしい場面である。自己責任とはまったく逆の話で、神様を信じて旅に出れば元死者?までも道連れとなり、お姫様と結婚できるという、――どこの中学2年生の夢なんだよと思うが、実際、お姫様みたいな人物と結婚する類いの人物には、死者がとり憑いているというのはあるのではなかろうか。これを非人間的なものと言ってしまうより、魔物とか神とか言った方が我々の精神はうまく回路が廻るようになっている。『サピエンス全史』は少ししか読んでないが、ほかのホモ族と違って、ホモサピエンスの特徴は、魔物とか神にリアルを感じて、人間の行動の範疇を破壊してしまうことで大量殺戮も戦争も可能になったみたいなことが書いてあった気がする。これによって、機械と人間の境はその発明された魔物や神によって一体としての「人間」となる。

このまえ、私が生まれたころの「鋼鉄ジーグ」というの初めて見たけど、「グレートマジンガー」の作画が劇画的に発達して、しかも中の人が、性格が乱暴なアムロという、なんか良いかんじじゃないか。なんでこっち側に進化しなかったんだろう?たぶん、ロボットのデザインが、人間であるのかロボットであるのか少し曖昧な感じがよくなかったのだ。改造人間だからと言って、かれは人間らしくならなくてもいいのだ。ロボットはどんどん非人間的なかたちに過激化していった。しかしだからといって、基本擬人化なのであるが。。。

教育の分野で、ICTみたいなものがなかなか進捗しないのは、どうもあの人間に奉仕しきる道具的なかんじに異和感がある。教育の世界は、もともと国民化の道具的な側面があって、非人間的であったところに、別の非人間性――例えば、受験戦争とか部活の戦争とかが入り込んで活性化している。これに対して、最近は、モンスターペアレンツや障害のある学生に対する、機械的にはいかない、過剰な「人間力」が求められている。教職への不人気の内実を当の学生にあたって調べてみると、単にブラックというイメージではなくて、ぼやかして言うといろんな「人間的ケア」の遂行に対する恐怖が大きいように思う。特にまじめな学生にとって、自分に多大な負担がのしかかるのではないかという恐怖である。働き方改革とやらが仕事を良心的な一部へ押しつける事態を導いているの、学生はみんな知ってる。また女性が建前上において(つまり機械的に)完全に平等に扱われうる職場が教職なんだという、ある種のイメージが昔はあったんだと思う。私の親の世代にはあった。それが時代の変化もあって、あまり輝かしいものとしてみえなくなり、一部では、そういう平等性も何処か崩れている雰囲気があると聞いた。あまりに「人間化」、人間の本性がぶつかり合う苛烈な場所では女性への理不尽さは出てきてしまうのはあるであろう。そもそも性を差別してくるのは当の子どもだったりするわけで。壺井栄「二十四の瞳」の世界は女性教員への差別の裏返しだったわけだが、この物語は、偶然性がかなり排除された論理的な話である。壺井の作品について言えば、初期の作品のほうが、偶然性=革命志向である。これに対して、戦後の児童ものは、ある意味、児童をロボット化している気がする。だから、彼女の作品は人気があったのである。


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