★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

すれちがい

2022-04-05 23:38:34 | 思想


微楽朝臻。笑天上楽。少憂夕迫。如没塗炭。娯曲未終。悲引忽逼。今為卿相。明為臣僕。始如鼠上之猫。終為鷹下之雀。恃草上露。志朝日至。馮枝端葉。忘風霜至。咨可痛哉。何異鸋鴂。曷足言哉。

これは無常観ではない。僅かな幸福が朝にあっただけで有頂天になったり、憂いが夕暮れにあれば塗炭の苦しみに転落したりする我々のおめでたさのことである。別に主観の作用でも何でもなくわれわれの気分と転機や状況が合致することがあり、われわれの脳は果てしなく暴走する様に出来ているのである。我々はそれをコントロールできない。あるときは鼠を捕まえた猫の様に得意であり、あるときは鷹にねらわれた雀のようである。比喩としては正反対なのではなく、それぞれ別々の気分である。あるときには猫であり、雀のようであるにすぎない。猫は雀にあらず。それを我々は諸行無常に感じるが、ただの猫と雀なのである。

ほんとは、葉の露の様にきえ、枝もすぐに風の折れてしまう儚いものだというようなせりふが続いているから、この道教先生は聞き手に分かりやすく言い過ぎている。

卑下は巨人や超人を生むものなのです。谷にいる人はそこから偉大なものを見る。ところが山のてっぺんからは小さなものしか見えぬのです。

――チェスタトン「神の鉄槌」


チェスタトンは逆説が大好きだったのでこう言ったわけであるが、我々は巨人や小人ではない。巨人を思う心と、自らを小人と思う心は、本当は対照的ではない。

浅倉卓弥氏の『君の名残を』だと、たしか義経と義仲が直接対峙するところがあった。しかし「平家物語」の無常観は、なんだか大物たちがすれ違いながら勝手に滅ぶところに趣がある。これは一種の「君の名は」なわけである。「君の名は」は、世の中の摂理が、すれ違いにあることを直観していた昔の頭のいい人たちの表現であった。


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