★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

信じなさい、方便だから

2022-08-11 23:44:12 | 思想


誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと、御約 束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐ らせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はから ひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆ ゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願の不思議 をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号 の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづか らのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたす け・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わ がこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすな り。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、 辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆゑに、 つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、 誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。

本多顕彰は、名号不思議を信じることなしに念仏をとなえるやからでも、辺地懈慢・疑城胎宮みたいなところにさしあたり行ってから、いずれ成仏するみたいなことを行っている唯円に対して、「現代人はしんじなくていい」と言っている。本多氏は、むろん、現代社会というのはこういうさしあたりここに行けますみたいなものが横行しているのを知っているから、余計感情的になって否定したのだ。

我々の精神的風土で、宗教が「ひたすら信じなさい」ということを強調しなければならないのには理由がある。我々が信じるのはいつも方便だからである。例えば、今日もやってた高校野球や、吹奏楽コンクール、大学入試などが青春の何かではなく、生涯をかけた何かになっていることは、――「源氏物語」に出てくる、「才を本にしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も強ふ侍らめ」にある発想をちょっと思わせるところもある。才は外国から入ってくるやつで、野球も音楽も勉強もそうなのだ。ちなみに近代戦争もそうであって、大和魂という自分そのものに達するための方便なのである。一生懸命やってるが、「信」じてはいない。しかしだからこそ、意志の力で自分をたきつけなければならないので、自然と軍隊式の努力になってしまう。

人間の死に対してもそうである。いろいろな考え方が、外から入ってきてわけが分からない。だから、大げさに祀ってみる。「終戦記念日」とか「原爆の日」などは一種の国家祭祀化してきているわけだが、その威力の減退と今回の安倍氏の国葬というのはやはりまあ関係はあるわけである。むろん、前者の国家祭祀には戦争責任とか体験の刻印が押されていた天皇の存在感が大きかったわけで、これが今の天皇のようになくなったことは大きい。靖国だって政治的イコンになりつつある。代わりになる方便が必要なのである。

こういう方便が全面化したのが現代の日本である。統★教会の問題がうまくいかないのは、もう娑婆の世界もどこぞの宗教ですか、サティアンですか、みたいな感じになってるからだ。宗教団体に洗脳されなくても、自らを洗脳することなんかうちの国は簡単にやってのける。それが方便としての洗脳だからなのである。

学校の世界ももともと人工的に共同性を演出しなければならない関係上、いつもカルト臭はするものであるが、昨今は、それが全員に対して行われなければならないというんで、思い切りレベルがさがっている。――すなわち、「先生になろう」とか「医者になろう」とか夢をかなえようみたいな掛け声が就職政策に関して使われるが、大人の頭脳を持つ学生にこういう小学校低学年に何かやらせるみたいな感じでけしかける、これほとんどやばいカルトのやり方だ。頭はおかしくはない。本気ではないからだ。――しかし、そういうことが許されるのであろうか。


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