
資本主義にとっての学校の主要な効用は、家族のスクーリングと人間の〈主体化〉にある。してみれば学校の効用は、それが企業や国家に必要な少数の人材を(極めて偶然的なやり方で) 生産するというポジティヴな側面より、圧倒的にネガティヴな側面から考察されねばならないのだ。現代の学校を特徴付けるその形式主義、厳格主義、体系性やカリキュラムの一貫性といった要素にも、あくまで学校制度のニヒリスティックな無益さと恣意性を隠蔽するための意図を見た方が正しいだろう。そして学校の戦略目標としての人間の〈主体化〉自体、いかなるポジティブな内実ももっていないのである。自己への敵対としての人間の主体化は、学校を超えたマクロな次元における現代資本主義の歴史的戦略に関係している。国家および科学技術体制と一体化したこの資本主義は、絶えざるサボタージュとミスティフィケーションの戦略を必要としている。現代科学技術の裡に、生と労働と環境自体を教育的なものに変える解放のポテンシャルが存在している限りにおいて、この体制は市民たちの学ぶ能力を挫折させ、解放をサボタージュしなければならない。またこの体制は、己れが生産する社会構造には市民たちを自ずと教育する力が欠けている事実をミスティファイする必要がある。だが史上大半の社会において、人間は社会構造それ自体によって感化され教育されたのだ。人間を教育することに関しての資本主義の無能さこそ、特殊化された空間における専門家による制度としての教育という幻想を生み出し、教育の完全な欠如と不在をみせかけの教育熱で覆い隠す狡猾な戦略をこの社会に強いたといえる。要するに現代テクノロジーの裡にそれと知られずに内在する解放のポテンシャルという見地からすれば、 二十世紀の学校の使命は一種の「予防反革命」にあることになろう。
――関曠野「教育のニヒリズム」(『野蛮としてのイエ社会』)
関氏がこの箇所より前のところでも言っていたと思うが、――学校が資本にやくだつイデオロギー注入装置だという左翼的見解が、わざわざ文科省などに、「学校が役に立つ」という観念をおしえてやったようなところがある。むろん、学校なんかが役に立つわけがない。資本主義は消費のシステムで根本的に「教育」によって人材を生産するのは苦手である。しかし同様に、それと結託した近代社会がつくった学校も「教育」が苦手である。学校が説く「主体化」はそういう自明の理を隠蔽する為にこそ機能している。依存先としての唯一の存在でありながら、その不備を指摘され続けることこそ、学校の存在理由なのである。いまもICT教育の必要などと資本と国が旗をフルものだから、学校は慣習すべてを旧来の?やりかたとして勝手に解放(掘り崩し)ながら、それによって自然と作動する葛藤、すなわち、どうにか維持されなければならない善や人間への葛藤、――の場としてますます学校は再起動し続ける。むろんその葛藤は、歴史や科学とともにある実践を常に勉強に差し戻す。関氏も言うように、教育されることは我々が歴史的社会的存在であることと違うことではないのだが、――なにか合理的に切り取られた認識がインストールできる気がしてしまうわけである。
学生時代以来、いろんな疑問があって古典文学や漢文に遡行してみているのだが、おもったよりも明瞭に分かることは少ない。転向とかするひとが信用できないのはそこであって、「転向」とはいわば、歴史の不明瞭さ、我々が教育されうる実態ではなく、合理的に、AからBに移行するような認識を信じるということである。
朝ドラって総集編でみるとメロドラマが2倍速みたいなテンポになってけっこうおもしろい。しかし、この面白さは何か我々の「勉強」化されたものを快と感ずるセンスのせいではなかろうかと疑われる。
橋本環奈氏が演じたこのまえの朝ドラは結局1回も観なかったが、今日みたかぎりでは、ギャルというのは魂レベルの分類であって、おそろしく主体化された人間のことらしい。わたくしは、愚かにも、ギャルにはいろんな種類があるらしいのでここまで違うともはやギャルという括りがなくてもよいのでは、と思っていたくらいだ。――それはともかく、わたくしが子供の頃から不良みたいなのが嫌いなのは、たぶん根本的には、祭の天狗が怖かったみたいなレベルのことであろうが、彼らの「主体化」された態度が学校でおそわったことをそのまま実践に移したみたいであって、まったく反学校には見えなかったからである。大概の中学校の教師というのはそうは思っていないだろうが、――申し訳ないが、このくらいは、中学生でも気付くことだ。
同じようなことは何か芸術の趣味においても存して、オルフの淫猥な「カルミナ・ブラーナ」という曲、編曲版で吹いたこともあるけど、いまだに好きになれない。はじめから主体のふりをしているのは主体化とはおもわれないからだ。
我々は、常に他なるものとの関係をアイデンティファイし、主体としてミスティフィケーションしながら生きているので、キリスト教やベートーベンとみずからを重ね合わせてはじかれる何かを回収しようとしているマーラーのほうが音楽として主体的にみえる。SFでよくある、「人間そっくり」出現は、それを作品の中では科学や宇宙人のせいにしているが、本当は我々の社会や学校のせいである。授業で必要なので最近観返した「クローン」という映画にはそういう事情が明瞭である。実は宇宙人にクローンにされてしまっている国家公務員(研究者)の夫婦は、お互いの愛の関係と公務員の活動とうまく重ね合わせられない。どちらかが「クローン」ではないかと疑っているにちがいない。話としては、そんな話ではないのだが、「クローン」というのはそういう自己同一性の危機の比喩なのである。――それはともかく、上映された頃はあまり面白いと思わなかったこの映画であるが、共働きでそこそこがんばってきた公務員がそろって宇宙人に惨殺されるはなしということでいまは感情移入できるに違いないと思って観た。
が、今度は当方、老眼鏡をかけていたために暗い画面がよくみえない。我々の生は、かならずアインデンティファイを妨害するようにも出来ているのである。