★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

亀裂

2024-04-07 22:06:57 | 思想


衞莊公娶于齊東宮得臣之妹、日莊姜。美而無子。衞人所爲賦碩人也。 又娶于陳、日厲婚。生孝伯。早死。 其娣戴媯生桓公。 莊姜以爲己子。 公子州吁、愛人之子也。有寵而好兵。

近代の文学者だって、じぶんたちのやってることは「和漢朗詠集」とどう違うのかぐらいは頭にひっかかっていたとみるべきであるが、前近代の世界おいて、上のようなエピソード自体には和漢の亀裂はなさそうにみえる。いや、いまだってそれほどありえなくはない。亀裂を意識するとき、我々はどこかしら人間でなくなっているのである。今日は、中山淳雄氏の『推しエコノミー』を斜め読んだあと、人間世界から離れた気がしたので、古荘匡義氏の綱島梁川論で勉強した。人間から離れているのは綱島梁川のほうのような気がするのに、印象は逆である。思うに、「推し」は亀裂そのものの逃避からの逃避であって、綱島のほうがまだ不合理の合理を行っているだけ人間であろうとしている感じなのである。

裸の猫が春の庭に寝て

近代はなにか表象というか映像というか、何者かに欺されているような世界であるが、センスのいい人にかかるとそうでもない。永井荷風の「おもかげ」を眺めているといい本だなあと思う。写真の使い方の上手さは安部公房並みではなかろうか。写真と言えば、安井仲治写真集もよかった。写真はどこかしら人間であることを成し遂げている。

我々は事象と人間の一致、――当事者性とかいう言葉を手に入れてある種人間ではなくなった。それに、当事者といってもそれは幇間の当事者性だろとしかいいようのないものも多々あり、そのひとを実際によくみてみないと分からないことが多すぎる。ようするにこれは、和漢の亀裂と一緒で偽の亀裂なのだ。批評の用語もしばしば亀裂をつくる。例えば、星座は批評の用語としても使われたりするのであるが、星座は、そもそも見えている空の広さと狭さを忘れさせるところがある。香川の空は広いからオリオン座は小さい。それよりも大きい星座の存在がおもしろい。

木曽ではそもそもオリオンが山に立っており、他は頭を山の中にツッコんでいた。

細と苺大福食ったから春だし今日はサラダ記念日

テレビではお花見のニュースを延々ながしていた。そんなに飲みたいのなら百日草なんかうえれば半年はお花見で飲めるぜと思った。江戸の植木屋さんたちは、一所懸命うえた桜の樹がこんなに大騒ぎになってるとは思いも寄らなかったに違いない。

山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです(小林秀雄)

蛙さんが庭の春で目覚めたから如雨露で水かけてあげた。


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