★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

書経的世界と鳥山明

2024-03-08 19:58:05 | 思想


惟今之謀人,姑將以為親。雖則云然,尚猷詢茲黃發,則罔所愆。」番番良士,旅力既愆,我尚有之;仡仡勇夫,射御不違,我尚不欲。惟截截善諞言,俾君子易辭,我皇多有之!

秦の穆公がいう、道に従う人は疎んで目先のことを考える人に親しんできましたがまちがえてました。これからはこのお年寄り達にしたがっていこうと思いますと。

よのなかは、例えば右の藤岡信勝が、左の舩山信一の弟の娘と結婚してたりする、舩山信一の弁証法論みたいな展開をなすものであり、つまりは先を読んで「新しい」ことをしようとすると、弁証法の悲惨が訪れる。夫婦とか家族の道もそうである。自分で御飯をつくって食べるときとパートナーに作ってもらって食べるときとどちらが態度が大きくなるかというと圧倒的に後者でなぜなのかわからんが逆ではない。老いも若きもそうなっている。客的になるからなのか子ども時代に帰るからなのか食事づくりにつかれてないからなのか。一人暮らしでも弁当買ってきたとき態度がでかかったことを思い出す。最近論文に絶望が足りないのはキルケゴールよまずにモーパッサンとか読んでたからかもしれない。独身を守り通したキルケゴールはこれ以上偉くなりたくなかったのだ。

これに対して、むかしの王のすごさに倣った道を行けばよいのだという考え方はどうやって成立するのか?

世界的人気漫画家の鳥山明氏が死去していた。イタリアに新婚旅行行ったら朝テレビで「ドラゴンボール」をやってた。イタリア語はまったくわからないが、楽しい朝だった。気のせいか、ミラノあたりでも街頭でかめはめ波撃っている子どもがいたと思う。それほど孫悟空の人気は圧倒的である。わたくしが鳥山明を読んだのは予備校の時が最初だとおもうが、中学の頃たぶん同世代がよく読んでて、木造校舎で中学男子がかめはめ波撃ってた。彼らはかめはめ波撃つために登校していたと言ってよいだろう。みんな言っていると思うが、鳥山明のマンガには死が存在しない。結構生き返るし復元される。作者が死ぬ前にドラゴンボールはもう他の人が連載しててかなりの時間が経つ。キャラクターも作品も永遠の命を得ているというのはまさにこのことである。

この永遠性というのは「子どもたちの時間」のものだ。鳥山明は80年頃、まんがを子どもに取り戻した。道ばたでウンコを串刺しにする、「じゃ結婚すっか」「んだ!」ですぐ子どもが出来てしまい、それを悪者が掠ったんで、追いかけて宇宙で悪者を退治する。友達が殺されたので強くなる。死もセックスもない、子どもの元気な夢だ。出世作「ドクタースランプ」というのは第1巻しか読んだことがないが、――そこには、「ドラゴンボール」のブルマもそうだが、小さい男の子が年上のお姉さんがどうみるかみたいな感覚と同時に、鄰の席から自分を叩いてくる同級生の女の子みたいなものが描かれていた。結局、ウンコを道ばたでつつくみたいな男子小学生の目線から書かれているのである。鳥山明によって漫画界の空気も一変してしまったというし、そのことで描けなくなってしまったひともいたと思う。あの絵は絶対に真似られないにもかかわらず空気が変わってしまったのは、目線が変わったからだ。

それは、バブルの浮ついた日本と関係があり、そのパロディックな「ペンギン村」というのは一種の日本なのである。「ドラゴンボール」はそれに比べると中国や群馬や千葉あたりの何処かわからないかんじで、世界的ヒットは結局西遊記の普遍性と組んだのがよかったともいえる。この普遍性も日本の文脈でのポストモダンのなかにあるが、世界的には単に東洋のおもしろいSFだった。最近いろんな人が亡くなって、もはやここは日本ではないかんじがするのは、そのねじれが本格的に消滅したからである。作品がのこってるからいいやというのは一面の真実にすぎず、生産者の存在がどこかでわれわれを過去に結びつける。

世界のみなさんは、ドラゴンボールを探しに行くついでに八犬伝を読んで頂きたい。ナショナリストとしてのわたくしはそう言いたい。

日本は当分悲しみに沈むであろう。アイドルや俳優の死の後追い自殺とかはきくけど、ほんとは作家とか漫画家の死で絶望する人も相当数いると思うんだよな。わたしだって、中上や大江が死んだときには蒲団被って寝てた。

それにしても「ドラゴンボール」というのは、これから興味深さがましてくる作品だ。「四書五経」読んでると、書経なんか一種の天下一武道会みたいに思えてくる。ただし順番にちゃんと英雄が入れ替わったり定期的に王が堕落するけれども。悟空は、何回か地球を救っても誰にも知られていなかったし、もう死んでるからいたかどうかもわからない。しかしそれをその物語を読んだ読者は知っているみたいのは、まあ日本の神話をはじめとしてよくある構造なんだが、天界が存在するところが舞台が中国っぽいという点とあわせて結構特異なかんじはする。ドラゴンボールの世界をひっくり返すとダンテの神曲みたいになるのかしらん?しかも罪への接近ではなく、罪がすべて許された天国、ではなく天界である。「書経」にかかれている、昔の聖人君主に従っていこうみたいな主張は、悟空のやったことはすばらしかったな、みたいなかんじかもしれない。で、その理屈のために、悟空は実在が確認できない王でなければならない。

ゴジラが厄災の神の誕生だったとすれば、悟空は神武天皇とか堯とかの誕生ではなかったであろうか。


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