★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「宋襄の仁」が失われた世界

2024-04-11 23:11:00 | 思想


子魚曰,君未知戦.勍敵之人,隘而不成列 天贊我也.阻而鼓之,不亦可乎.猶有懼焉.且今之勍者,皆吾敵也.雖及胡耇,獲則取之.何有於二毛.明恥教戦,求殺敵也.傷未及死.如何勿重.若愛重傷,則如勿傷.愛其二毛,則如服焉.三軍以利用也,金鼓以声気也.利而用之,阻溢可也.声盛致志,鼓儳可也.

確かに、われわれはやたら文章から表象を取り出す読み方をしつけられているから、宋襄の仁においても、白髪の老人が無惨に殺されるシーンなどを想起してしまいがちである。しかし、昔の人だって、イメージしなかったわけはないのだ。それを乗り越える観念と意志がリアルだっただけだ。窮地に陥った敵に情けをかけるような礼は果たして妥当なのか、優先順位を考えて息の根を止めておくべきなのか、判断はいろいろあるにせよ、例えば「人道状況の悪化」みたいな言葉で理解していることと、「宋襄の仁」みたいな言葉で理解していること、――前者が優れているかはわからないのは当然なのである。むしろ我々は、事態を常に道徳化して考えるような癖もつけすぎている。だから残酷なのである。

ペルーからポリネシアに筏で渡ったヘイエルダールの「コンチキ号探検記」の最初に、筏の上でゲーテを読む仲間の話が出てくる。そのあともでてきたかもしれないが、ゲーテとはこんな旅にも持って行くものであるということが、高校生のころのわたしにやっぱり西洋人なかなか侮れんなと思わせたのを思い出した。確かに、ゲーテはそういう冒険における死と快をさける生を見つめていたところがあるかもしれない。

学生に「葬送のフリーレンは何で出来ているか」という話をしながら、今の説明にはでかいパーツが抜けているようだとか言ってたら、「先生それたぶんゲーム。。」と言われたことがあるんだが、やはりマリオもドラクエもやったことがないからワシは分からないのだ。冒険というものが仮想空間で行われることが全くわたくしには理解できていない。文学を生業としているくせに、冒険譚をあまり好きではないのはそのせいなのか?ゲーテをちゃんと読んでないせいなのか?

ヘイエルダールの頃とは違って、地球が認識内に閉じているということはある。冒険は、アメリカのサブカルがそうであるように、暴力に入れ替わったのである。ジョン・カーペンターの「クリスティーン」で、最後に車に殺されかかった女の子が「ロックンロールは嫌いよ」と言っている。その車がいつも古いロックを勝手に車内に流すからなのだが、文化的にも含みがあるんだろうなと思った。いまの日本でいうと「昭和の暴力は嫌いよ」みたいな感じなのであろう。

例えば、自分が非リア充と思っている文学青年たちが溺愛すべきなのは、梶井とか安吾とか宮沢賢治みたいなあれであって、まちがっても鷗外や芥川、太宰とかみたいなモテるやつではない。ときどき逆になっている奴がいるので忠告しておきたいのであるが、言葉は生身の状態と解離すると兇器だからだ。他人がそういう兇器をほって置くはずがない。どうも冒険が暴力として経験されているから、我々はそこら辺がいつも混乱しがちなのではなかろうか。芥川は、望んだ結婚が出来なかったからといって人のエゴイズムがなんたらとか口では言っているが、――最近の発見でもわかるように押し花を本に挟んだりする気障な野郎である。

そういえば、今頃気付いたんだが、「エイリアン」の怪物は力もそうだけど体液が酸で食欲?が全身に漲っているというのが怖ろしいわけだが、「ドラゴンボール」はどんな敵でも卑怯な酸とか食欲みたいなものじゃなくて、基本殴り合いをしてくれる者の群像劇である。作者も気付いてたのか、魔神ブーのときに相手をお菓子にするというのがあったが、お菓子にするまでもなく食えば良いわけで、でもそうはしない。食と性がどことなく抑圧されているから我々は安心しているところある。鳥山明は「ドラゴンボール」に限らず二次創作的な作品な訳で特に後半はエイリアンのパロディとしてすごく意味があった。アラレちゃんはパロディにする必要がなさそうなのにしてるみたいで私はあまりのれなかった。で、庵野秀明とかはパロディではなく、シンとかいいつつ本質を模倣しようというかたちにして、エイリアン以降のパロディにしないと生理的に収まりがつかないものではない、――子どもにたいして暴力的で真面目な娯楽をとりもどすという感じなのであろう。思想として正しいのかは知らないが。

最近、木曽町出身の俳優田中要次氏が朝ドラで、いい人だが完全に脇役でまた登場している。いつもいいよ、とかおじょうちゃんがしんぱいで、みたいなこと言いながら画面の潤滑油みたいなかんじを担っているのだが、木曽はいつまでも周縁じゃねえぞ。これから主人公と法廷でキスしたり、主人公と一緒に東條英機を暗殺したりする方向でたのむぜ、女の権利が踏みにじられているのはあたりまえじゃねえか。――みたいな感想が出てくる程、我々はまったく冒険をしなくなっているのだ。そうすると、あとは正義と暴力だ。