★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

主体と影

2024-04-08 23:39:20 | 思想


君子曰、石碏純臣也。惡州吁而厚與焉。大義滅親、其是之謂乎。

これなんか、こんなせりふをしらずとも、また道徳の授業なんかなくともわりとわれわれは内面化している。――とおもったが、そうでもないかもしれない。むろん、左氏伝の作者もべつに道徳を発明したわけじゃなく、こういうことは昔からわれているんだが、この行為がそういうことだよね、といった人の言葉を引用するという、又聞きの又聞きのなのである。

そういえば、秋山駿も中原中也伝の最初に、彼にとって落第がとても決定的な出来事だったと言って居るぞ。みんなで落第しようぜ。

安部公房もどこかで、「高等学校は思想の遊歩場でなければならぬ」といっておったぞ。

「人生は歩いてゐる影たるに過ぎん」とは、大望失敗後のマクベスの歎息語で、〔略〕奇警な言葉でも珍らしい言葉でもなく、東西古今の人が、事に触れて口にする陳腐な言葉であるに過ぎないが、外国の都邑の道路を漫歩してゐる時なんかには、「歩いてゐる影」といふ言葉を痛切に感ずる

――正宗白鳥「無用人」


わたしなんか、自分の蔭どころか、ジャージをしばしばひっくり返して着たり、後ろ前逆に着ていたりする。自分が空っぽであるのは近代人の常であるが、それ以上に自分の謎は深い。だから、われわれは自分でないものはすばやく影のように過ぎ去ってほしいと思っている。だから、押見修造と村上春樹は似ている。すごくはやく読めるところである。作品は重いのだが、影のように過ぎ去る作品群を生産し続けている。

同時代性というか同世代感をいい加減にかんじたことがないでもないのは「老人Z」である。作り手たちはかなり年上なんだが、まだ馬鹿ふざけす主体が疑われていなかったから、影はあまり見えなかった。平中悠一氏の「細雪」論がとどいたので、ことし中に読む予定である。谷崎はその点、――影と主体の関係に於いてすごく奇妙なあり方をしている。

そういえば、92歳でまだ生きてる谷川俊太郎が話題らしいので、――朝日ドットコムの記事をちょっと読んだ。食うために詩を書くしかなかったみたいに言っているのは、金田正一と同じだ。二人とも、早熟、他作。多くの敵がいる。あんまり谷川の詩を読んでないのでなんともあれだが、わたくしが七〇年代あたりに大学生であったなら絶対谷川殲滅とかデモをうっている。


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