★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

似たひと

2024-04-16 23:27:23 | 文学


陳霊公与孔寧・儀行父飲酒於夏氏。公謂行父曰、「徴舒似女」。対曰、「亦似君」。徵舒病之。公出。自其廏射而殺之。二子奔楚。

お前は**に似ているという言葉はひどく呪いになる。小学生でも知っていることだ。たとえば、君は親に似ている、とかいうのは強烈な呪いとなりうるのである。子どもの頃は誇りに思えるものでもそれがそのままであることはほぼあり得ない。

 お茶をいれている私のそばである友達が栗の皮をむきながら、
「あなた、染物屋の横にあるお風呂へよく行くの」
ときいた。
「行かないわ」
「ほんと? じゃどうしたんだろう、始終あすこで見かけるって云っていた人があってよ」
 ふき出しながら、私は、
「お気の毒だわ、間違えられた人――」
と云った。
「こんな、ちょうろぎのようなの、やっぱりあるのかしら……」

 それから程もない或る夕方、ガラリと格子をあけて紙包をかかえた妹が入って来た。立ったまま、
「きょうお姉様に上野の広小路と山下の間で会った」
とハアハア笑った。
「いやよ、何云ってるのさ」
「だって、バスにのっているすぐとなりの男のひとが、ほらあれって云ってるんだもの」
「見たの?」
「ううん、こんでいてそっちは見えなかった。フフフフ」
 私があんまり丸まっちいので、いくらか丸い、或は相当に丸いひとがみんなその一つの概念にあてはめて間違われるのはなかなか愉快だと思う。

――宮本百合子「似たひと」


なんでもかんでも自分に見えてしまう病に罹っていた芥川の自殺から一〇年、宮本百合子のこのおおらかさは抵抗でもあった。労働者という言葉を合い言葉とするのはこういうおおらかさが必要なのである。