★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ゆくへもなしといふもはかなし

2022-02-10 23:34:09 | 文学


炎のみ虚空に満てる阿鼻地獄 ゆくへもなしといふもはかなし


既に地獄に墜ちてる気分になっていたのか、その地獄というのがその中にしか行方がないような閉じた空間であると感じられていたのか。地獄というのは脱出できる救いがないのであり、この現世と同じである。

若い頃は分からなかったが、殺人偸盗なんでもござれの小説ばかり書いていた芥川龍之介は、世の中を若い頃から地獄だと思っていたにちがいなく、主人公たちがほとんど八大地獄のどこかに墜ちているはずであった。これにくらべると、後年の私小説じみたものには現世は地獄であったほしくないような祈りみたいなものがあったのかもしれない。しかしそれをなにか法則に外れたものとして認識してしまったようだ。

人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは 一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは 目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。

――「侏儒の言葉」


これでは、「楽あれば苦あり」みたいな箴言よりも間違っていることは確かではないか。芥川龍之介はあまりにも人生を「同時に」みたいな相に於いて見てしまったのではなかろうか。

以前、西村賢太氏が東大の阿部先生との対談で、若い頃、土屋隆夫の、純文学の作家と絡めた推理小説を読んでて、それで田中英光を知ったと言っていた。それは度々氏が告白していることでもあった。もっとも、推理小説と私小説というのは似ているのである。前者が、謎から真相に迫るのに対して、後者が真相から語り出して謎に行き着くだけである。そこには、一直線の因果関係への信頼と懐疑がある。

芥川龍之介の知性は、さすがに、そのような因果関係をみるには、人生を圧縮して「同時に」の相に見ることにおいて先を読みすぎていた。やはり芥川は探偵小説のあとから出発した男である。

人を育てたり、生きやすさを追究したりするのはものすごく複雑な行為と試行錯誤の積み重ねが必要であるにもかかわらず、基本どうにもならない偶然に対する気楽な構えと覚悟が必要である。どうみてもコミュニケーション能力とか何とか力とかいうガキの鉄砲みたいなものだけじゃなんともならぬ。そこには、AだからBになるはずみたいな、子ども的な願望があり、私小説以前、芥川以前的なものに過ぎない。


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