塔をくみ堂をつくるも 人のなげき懺悔にまさる功徳やはある
第三句が第二句につづくとすると、塔や堂をつくったりするのも人の歎きなんだが懺悔にまさる功徳はなし、という意味になり、第三句が第四句に続くと歎きと懺悔こそが、物を創ったりすることよりも歎きや懺悔する心が大事だよ、という意味になる。わたしは、前者の方がなんとなく含蓄がありそうで良い気がする。つまり歎きと懺悔は似て非なる物であって、塔や堂の物質と心の対比によって、本当に魂があるのは、歎きじゃなくて懺悔なのだということを際立たせているようであるからだ。
わたしは作品にはなにか言いたいことがあり、それを最大限汲まなくてはならないと考えているので、――わたしの意に反して、文学作品にこそコミュニケーションの能力の発揮を見るべきではないかと思い始めている。その言いたいことがあるかぎり、その理解が論理的整理でも受容者の感想でもあってはならないのは当たり前だ。もっとも、近代文学は普通のコミュニケーションにおさまらない意味の複雑さを発達させていったにもかかわらず、それゆえにかえって「作品」という鑑賞物というモノになってしまった感があって、粗雑な人間たちに理解されずに骨董品や観光資源の仲間入りをしようとしている。
文壇というのは対談で出来ておらず、鼎談とか合評でできている。後者はコミュニケーションというより、むしろ社会的なものである。この前、石原慎太郎と三島由紀夫の対談集を読んだが、結構面白かった。まったく話がかみ合っていなかったからである。これに対して、三島由紀夫と花田清輝と安部公房とかの鼎談になると、なんか話がかみ合っているようにみえる。つまり、鼎談が「作品」を生成させるのであった。
私の文学上の経歴――なんていっても、別に光彩のあることもないから、話すんなら、寧そ私の昔からの思想の変遷とでもいうことにしよう。いわば、半生の懺悔談だね……いや、この方が罪滅しになって結句いいかも知れん。
――二葉亭四迷「予が半生の懺悔」
近代文学の「作品」をつくった一人であるこの方には、懺悔だけがあって案外歎きの方がない。なるほど、こういう態度が信用できないから、歎きばかりでいっこうに懺悔しない連中がこのあと出てくる訳であった。この延長線上に、我々のバカが成立している。